こまじめ

 

 

 

悲しいことだって感じが好きと言われた今朝。

「悲しいことを悲しいと現わせる人はなかなかおらん」

 

普通の事ではないか、いや、まず人は社会において感情の抑制と演技をまず学ぶよな、と自分の見解を改める。子供が転んだり思い通りにいかなかったりして泣き喚くのは本当にそれが悲しいという最初から、悲しそうなところを現実に表明すれば助けがやってくるという概念に移行するという感じ。もちろん鬱陶しいとかではない。泣けなくなった子供ほど悲しいものはない。子供時代に泣けなかったのであれば、大人になってから1人で泣いたらいい。

 

感情の抑制はおそらく完成された人格は情緒が安定しているという幻想というか理想みたいなところが発端で、感情表明は儀式とか定型文に移行していく。こういう状況であればこういう風に悲しみを表明して現実化するのが常識だという、類化。こういう意識に属する文化的なものは悪くはない。外を判断するときに、いちいち哲学せずに思考のリソースを他のことに裂ける。でも、現代のまともな人は、この辺りの茶番みたいなところに気付きつつあるような。国葬問題も焦点は行政が税金で集めた資金の用途だろうし。故人を悼む悲しさは言葉でも行動でも消化されるものではない。

 

本日はこういった感情とその現実化のようなものを考えていた。

 

noteごはんでも皆面白いことを書いている。

 

そういえば、脇道。帰宅してからPDFで集めたごはんを少し食べた。覚えるために集めている訳ではないから読んだら即削除していく。譲渡担保と債権法改正の記事はなんというかまとめただけという感じだった。

 

不同意性交罪の記事はちょっと興味深かった。心情的にどうかという話ではなく、裁判を想定した証拠の話。今の強制性交罪だと、大人同士で成立するのは「暴行又は強迫」によって犯行を著しく抑圧してことに至るという要件、いや条件の方が分かりやすいか、が必要だが、これが不同意を条件とするとどうなるかという思考実験のような記事だった。こういうことを考えるとき、実際の被害者の事情を鑑みることに意味はない。未来においてどれだけ減らせるかが刑法の本領だし。

 

 

そもそも、刑法が暴行とか強迫を条件としたのは、そこまで証明できないと密室状況に至らないだろうという男女間の思想背景があるように想像される。物理的、あるいは心理的な強制がないとまずそういう空間に至らない。民事的な契約法の発展と憲法個人主義ブレンドで、人は自由な意思決定ができて、きちんと前後を判断できるという前提に、性交渉における同意が生まれたのでは。これも想像。

 

でも、どこまでが同意だったかというのは証明的にかなり難しい。だってそういうことに至る空間ってやり取りを証明できる第三者のような証人も居ないし、契約書みたいに書面を交わしたとしても、性的自己決定権って、そもそも過去の合意に拘束されるものなのかという話。財産権については物だから合意によって移転したり交換したりされるのは分かる。人が持っている物だから、自己の物をどうするかはまさに自由だし、判断力不足とか情報不足とかで損したとしてもその人の責任になる。が、まぐわいはこれとなぞらえるのか、むしろなぞらえらると性の価値は交換可能になって個人の尊厳が貶められるのでは。

 

まぁ、絶対価値ではなく相対価値というのは分からなくもない。

釣り合わせるために、他の価値を加えないといけないとか。

 

ともかく。ここから不同意をどう解釈するかが面白かった。現代犯罪において故意というのはわざとではなく状況認識であって、不同意であるという認識の上で至ったとすると、それを確証できる状況証拠はきっとない。だって、言葉で嫌だと言われてもほんとにどうかは知る由もない。そうでなくて、同意を確認していないという認識にすれば、上手く運用されるのではないかという話だった。言語で確認を取ったのか、状況がどうだったのかは、おそらく当人達の供述証拠を吟味すればなんとかできそうなのではって。

 

外のルールがもっと内に入っていくべきなのは力関係が不均衡な監護者性交罪のような類型だと思うのだが、もっと拡がっているみたい。

 

この世界観を延長していくと、性別とはかなりリスクな感じがあるのだが、あんまり気にはされていない模様。

 

なんでこんな話になったのか。

一応理由がある。人が何か行動するときに理由があるというのは後付けなのではないかと研究(哲学?)した記事があったから。

 

因果関係という言葉を初めて知ったのは、たしか民法不法行為のところ。債務不履行にもこの概念はあるし、刑法にもある。ある行為が結果と繋がっているか。

 

正直あんまり腑に落ちなかった。どの概念も、責任を負わせることが当然かということを論証するための説明概念であって、物理的な法則とはズレている。要は外から読んで、それがまぁそれで良いかなと納得できるような説明が付くかという話。

 

おそらく、人の中にあるとされる原因と結果の関係も類似していて、動機とか何々だからそうしたみたいなストーリーは、誰かに説明する為に生まれている言葉でしかない。もちろん、一番の説明対象は本人である。誰しもがここではストーリーテラー

 

辻褄を合わせるために現実を言葉で加工していくから、自分が生きている世界が歪んでいく。知らんけど。

 

少なくとも、僕は自他の言葉に存在の中心を置いていない。

 

なんだか小難しくなっている?

 

ちょっと緩めて。

いや、ちょっと文学的なところに至りそう。

 

冒頭の言葉をいただいたあと、たしかに僕は文章界で情緒は素直に現わしている気がするなと顧みた。好きは好きだし、楽しいは楽しいし、美味しいはただ美味しい。ここには因果はない。恋人さんのことはてらいなくとても好き(のろけ)。

 

情緒は不安定だが、不安定が悪いのは、感情の波が現実に連動しているからだけであって、感情自体波打たないのは人間としておかしなこと。

 

で、「文章における表情筋」というフレーズが出てきた。

楽しそうなことが書かれているという意味の像ではなく、楽しそうに書いているという文の意味から離れた像。

 

考えていたら、代書屋さんの記事に「言葉は声である」というフレーズを食べる。ちょっと分かる。人は目でも聴けるし、文章を聴覚的に読める人も居る。昔はきっとそんな人ばかりだったのだろうな。短歌での交信とか。

 

ただ、なんというか、聴覚だけで読むのは勿体ない気がする。もちろん視覚だけでも。本を読んで意味を追っていると、何か変なもやもやが形成されるという質感がある。ない?

 

これって結局は、人がというか、自分がどの五感で優位な存在なのかという話。

文化の三類型で、意識なのか、行動なのか、物なのかでも良い。

 

言葉を物と捉えている人の文章は割と角ばっている。

表情筋が緩んでいない。真面目に書こうとしてこわばっている。

 

皮肉とか、メタ的に書ける人は割かし自由。

村上さんのノルウェイの森の下敷きはキャッチャーインザライっぽい感じを読めるのも良い。他人に説明する必要もない。

 

表情筋を緩められるのは遊びの一種であって、別に人からどう読まれても自分は自分であるというだけ。

 

ほんとうに匿名的な存在であろうとするならインターネット世界に現実の物体的なプロフィールは持ってこないと思うのだが、なんか連動されている人が多そう。でも、今の世界はそういうものだから、別に良いのか。

 

一連の思索からフィードバックして、現実の表情筋。

泣くのも難しいが、笑うのも難しい。

 

怒る人はSなのか。いや、険しさって守備だからある意味Mである。いちいち怒る人は守るために険しくしている。愛情をもって叱ることができる人はなかなかおらない。

 

他人を守るために怒る人には怒り皺は刻印されないと思われる。

 

表情は言葉の前にある。

 

やべ、時間オーバー。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。