主語なき

 

 

 

 

見知らぬ街を散歩する夢を見た。1人だけ自転車で先へ先へ進んでいく誰か。追いつこうと走っていたら、どうやら川を運行する屋形船に2人で乗ろうとしていたらしい。

 

なかなか良い街だった。どこにあるのかは知らないけれど。

 

あとは、実家界隈。細部を夢のように覚えている。

 

どっちがどっちか。

 

 

本日もたくさん仕事をした。これからの効率を高めるために、現時点では遅くなるが、左手に負荷を増やす。慣れればもっと早くなる。利き腕がメインというのも常識の範疇だから、限界を破壊してみたい。左利きの人は、日常生活には右手用のものが多いからメインが分散するのが当たり前なのだろうな。左利きに天才が多いという風潮も手を動かす領域が自然と広くなるからなのかもしれない。

 

そして少しヘマをした。でも別にそれくらいのヘマではなんともならないくらいにはなっているから、気にならない。そして、帰り道のルートを変更して遊んだが、遊びが中途半端だった。過去をあてにするのはなんとも僕らしくない。

 

トータル、本調子ではなかったのかという感じだが、帰ってからは余計に楽しくなった。行動が早い、拙い、騒がしい。

 

 

このざわつきというか、波打ちが何だったかというと、恋人さんとの昨夜の通話での何気ない一言だったのだろうなと発掘される。自覚的なトラウマでもないし、それが僕の存在であるとしているはずなのに何故か過剰反応があった。それが見えればなんとでもなるし、全く遺恨はないのだが。

 

僕の文章について、「脈絡が無い」というフレーズ。もともとそういう風に思索を描写しているから、本来であれば問題はない。飛び飛び過ぎになりがちというのも否めないが、読む人に対しても、飛び飛びに読めばよかろうという感じ。分野も無軌道だし、書いた自分すら特に意味なく書いていることは分かっている。シュールレアリスムブルトンさんがやっていた自動手記、ないし、「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」のシャッフリングのような世界。

 

この脈絡を全部文字で埋めようとすればきっと文字数が5倍くらいになる。これはこれで指の運動みたいで楽しそうだが。国葬問題の訴訟法的な意味合いとか最初から書き出せば小論文になりそう。なんとも無味乾燥。

 

脈絡があるように書くためには1つのテーマに絞るということが必須だが、とりあえず毎日書くのは散文としているから、読みにくくて申し訳ない。今週末に行くだろう演劇については劇評というか体感文で1つ書くつもり。まぁ、どこに貼るのかは不明瞭。

 

だから、文章についてのことはなんでもなかったのだろうと思う。

もっと深みのトラウマスイッチは、「主語が無い」という言葉だった模様。

 

これ自体はありがちな指摘。自他が未分離で発話も文章も拙ければ、分かり易いように表現しろとなって、その分かり易さと自分が一致することになる。

 

僕があまり人と話さなくなったのは中学校から高校にかけてで、一応友達もある程度居たが、ほんとうに自分で話しているという感じがなかった。だから会話ベタだと認識していたが、今の仕事は発話だけでする仕事で、慣れたら説明みたいなことはすんなりできる。

 

ただ、これができるからと言って、自分を説明することができるかというのは別の話。

自己紹介くらいはおそらく場に合わせてできるのだろうが、そこで言葉で説明された自分は果たして自分なのかというというところ。

 

自分はこういう人物だと自己評価している人がさっぱりそういう人物で無かったり、自己評価が低すぎるのが外から見たらきっぱり違ったりするところからして、主体とはなんぞやということになってくる。

 

個人的な体感として、自分で居るときに主語は要らないというか、無い。思考でも感情でも感覚でも、そのときは、ただそこに在るだけで、他者と分かたれた自己で居るという概念は不要。もちろん誰かに何かを報告する文脈だときちんと整理しないといけないが、自分で居るときに際してまで説明的に捉えることもなく、生きて過ごしているだけで当人。

 

この感覚は世界と未分離なのかという説もあるが、むしろ独立しているような。

 

主体としての目がどこにあるかなぞ読んだら分かるものでは。私と社会を連動する目は何処に当人があるかは読めないけども、それはそれでよろしい。

 

この主体の話、人の本質っぽいな。

 

そろそろnoteで雑食するのもやめようかという気分。言葉に影響受ける質だから混沌になる。言葉を情報ではなく食べ物としている節。まぁ情報だって、世界の採り入れの一種だから、食べ物ではある。

 

本質とは何ぞやという記事があった。仕事において「何故それをしているのか」に考えが至るのが本質だって。たしかに、Whyまで至らずに業務をこなしていると何も判断できない人材が形成される。ただ、これが分かったところで、モチベーションの問題にしかならないような。いや、モチベーションもとても大事ではある。

 

どこで読んだのだっけ。フェルミ推定の話だったか、抽象的に考えるとはで、何故だけが抽象的に高次にいけるみたいな話。何故は尽きない。何故何故の無限の問答に回答できる人は居ない。

 

やれやれ。

 

本日はあまり自動書記領域に入っていない模様。

出口がジャムしていると言葉が出てこない。ということは、脈絡がある?

 

どうでも良い話。

僕は心を許している人に対して、割と突拍子もないことを言ったり振る舞ったりする。でも、これって全く突拍子が無いということでもなく、僕を把握しているのであれば、通じるのではという感じ。まるでノルウェイの森の緑のような感じだが、この人よりはそれほどでもないと思う。別に相手に愛を求めてない。

 

前置き情報が無ければそりゃあ、?になるが、突拍子の無さは既に公開されている訳で。

だからといって緩んで良いということでもないが。僕は相手の言葉を否定はしてないのだけどな。

 

ほんと、今日は言葉が詰まっている。

詰まっているのはつまらなくないということだから、何の問題もない。

 

またさらに面白くなってくるな。

 

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。