決定論

 

 

 

「不在」。メンタルが不調な時は読まない方が良いと書いている方が居たが、とても分かる。不穏な空気がずっと漂っているし、読んでいる脳内空間に充満して現実にはみ出してくる。これって、おそらく他人事にはし切れない普遍性があるから。

 

僕は読み切った後でないとその本のことは書かないということはあまりしない。むしろ、読後感の方は自分のもの。物寂しさは何を読み終わっても変わらないし。

 

遂に不穏が爆発して、年下の恋人と別れた。依存という名の相互利用関係が終わったとも言えるが、どちらの言い分の中にも相手が居ないことはとても現実的ではある。僕が思った普遍性というのは、こういう別れはありがちだということではなく、世界観の話。前時代(家庭環境)で作られた世界とはこうあるべきというのは否応なく人に根ざす。年下の恋人は主人公をぶっ壊れていると評したが、とうの人もまぁまぁぶっ壊れていると読める。

 

まぁ僕も人のぶっ壊れ部分に好ましさを感じるし、僕もぶっ壊れているとは思うが、そもそも「壊れていない部分」って、その人の気質というより、前時代からの社会ないし環境に従順で居られるかということでしかないのではとも思う。要は、無個性の個体であれる部分。

 

僕は爆発しても殴る本性でなくて良かったなと、血みどろに殴った後、「ごめんさい」と言っているシーンを見て思った。泥酔するとスキマに入りたくなる傾向はある。ベッドと壁のすきまとか。

 

どなたかの日記で読んだが、僕は自分の人生で世界から自分で退場した人が居たことがない。人間失格は好きだから実は僕が一番近いと思うし、周りも若干気にしている節はあるが、これくらいの危うさは誰でも持っているはず。まだ自分にも世界にも諦めてないからそういう行為はずっと先。

 

「人は成長しても変わらない」というのはアドラーさんが書いていたが、たしかにそうなのだろう。外向けの作法というかスキルは習得されてまっとうに生きている風に見せることはできるが、どうしても最初の世界観がある。非決定論というのは、意思で自分をコントロールできるという意味では決定論と言えそうだが、その前に人は生まれた時から自分の運命が決められているという決定論がある。文脈を外すと意味が取れない。

 

「不在」は、決定論を感じさせるという空気が不穏。自分はこういうものだというのが自分でもあまり分かっていない状態だと、意識はどうしても外に向かって相手と自分の図式として把握してしまい、相手がどうかに注意が向かわない。試し行為とかもそうよなと我ながら思う。こうだったらああだという論理的な回路を自分で作ってしまう。例えば、相手は自分のことが好きだから大事にしてくれるとか、大事にしてくれるから好きなのだとか。これは主語を自分にしても成り立つ。

 

ではどうなんだっていうと、意識の話。僕がたまたま読んでいるだけなのかもしれないが、意識が世界を左右するという本が増えてきたような感じ。世界が客観か主観かはどうでも良い話であって、自分の目に留まるものが何かということが人生の舞台を形作ると捉えると、そういう方面に僕の注意が向いてきただけ。

 

自分のことは分からなくても、自分が何を見ているのかとか、何を考えているかはモニタリングできる。どうでも良いが、なんだか人の服が気になる。無難な服を採用しているのか、自分の好きな服を着ているのか。古参の好きな先輩、昨日はアクティブなボーダーにスラックス風だったが、今日は清楚なスカートだった。仮に僕が上司の立場だったらもしかしたら言葉として現実化するかもしれない。このご時世何がセクハラになるか分からないところはあるが、評価を交えずに相手の意識を表現すれば、そんなことはないような。という微妙な関係性で言葉が制限されるのが現実だが、こういう意味で制限されていると思っている人はどれくらい居るだろう。自分にとってこう見えたということと、相手の立場を想像してそうなっているというのは全然別のことなはず。

 

意識とイメージ読書はなんとなく繋がっていてなかなか楽しい。

賢い人は思考が発達しているのではなく、感情が発達しているとか。ここで感情とは共感ではなく、あくまで自分の感情。一般的に何かの事象に対してこういう感情を持つべきであることに従うことではなく、もっとほんとの自分の感情。

 

とても大事。楽しむべき、安らぐべきみたいなことではなく、ほんとうにそうなのかという話。個人的にはほんとうにそうだったら、そうだって言葉で外に開示する必要がないと思う。

 

言葉との距離感だが、僕は言葉が自分を決めるものとは思っていないし、自分固有の語彙なぞない。だって別に言葉で考えていないし、言葉で考えるということは外用の語彙を意識している訳で。

 

そういう意味で、会話の勧めだが、自分の語彙がどうであるかより、相手の語用がどうであるかを意識する必要があるのではないかと思った。そういう風に人の話を聞いていたら、相手がどういう風に言葉を使っているのかは分かるし、その蓄積から突拍子がない言葉がでてきても、なんとなく読める。

 

まぁ普通は会話って自分の言葉を基準にしているから噛み合わないことが起こるし、噛み合いを求める。この基準の違いが、僕が何を思っているのかが分からないと評された理由なのかも。僕は言葉で伝えたい自分なんてないし。伝わらないもどかしさではなく、そもそも伝えたいことがない。くらいの言葉との距離感。

 

それとは別に、個別の人に言葉で教えるということが好きなのかもと思っている。相手の語彙の中で、ある物事の概念が伝わること。直近の恋人さん(もう2年前くらいになるが)に、ニュースでは性犯罪の裁判は有罪無罪とか、犯人がどれだけ悪いかが報道されているが、裁判ではこういうことをやっているんだよと説明して、なるほどと言われたこととか。語った訳ではなく、知りたいという質問があったため。

 

そういう意味ではかなり素直な人だったな。

僕はひねくれ。

 

教えるって、上から下にという立場上の優劣があるようだが、僕は勝手に教わっているからそういうことでもなく。仕事でも相手が分かったとなってくれるのは嬉しい。

 

アドラーさんの言だが、人には興味というシステムがあり、もっと奥に関心という本質があるとのことで、教育は必要ないとか。たしかに教育がすべきことは危険なことを避けるくらいであって、何かを学ばなくてはならないというという義務を押し付けることではない。

 

義務から外れたら不安だという感覚は自分がそう学んだからだろうが、不安ではどこにもいけない。

 

あと面白いのが、現実の習得で、美学史の本から。学問は概念的現実の習得で、芸術は直感的現実。僕はまだまだ現実を習得していないという鱗が剥がれると、世界ってめっちゃ広いよなと感じる。鳥肌もの。

 

まずは、一人でも寂しくない自律をすること。

となってくると、誰も自分の為には使えなくなってくる。

 

それでも繋がっているのが本当の関係では。

 

最後。

 

言葉との距離感の補足。

 

人は言葉を客観的に扱っていることはない。厳密な論文ならともかく、一般的な文章はだいたい。で、読み手も個々の言葉のイメージで読むから一致はできない。

 

僕の文章は一致しないのが面白いから問題ない。好きなように捉えてくれれば。

 

おしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い夢に。