読書癖の起源

 

 

もう木曜日かという感覚と、まだ木曜日なのかという感覚と。

昨日の日記は編集しなくて良かった。

 

 

引き続き朝から無慈悲な雨。道路に川ができていて靴は用をなさない。長靴を履いている人も見かけたが、僕は長靴履いていてもだいたい中からぐしょぐしょだったな。本日もぐしょぐしょで、折り畳み傘もたいした役には立たない。会社は快適なオフィスだからしっかり空調が効いており、冷やされた空気が服を乾かしながら僕の体温を奪っていく。昼休みにこのままではマジでヤバイと思い、せめて靴下だけ履き替えた。

 

人工的に均された街では体を温める場所は1つもなかった。

 

こういう感じでとても気分が良くなる状況ではないのだが、中身ではかなりテンションが高い。なんでだろうと内省してみる。アクシデントに対する高揚なのかとも考えたが、たぶんほんとに雨が好きなだけ。なんでこんなに好きなのかの出自は不明。

 

昼休みにブックオフに行ってみたのだが、「絵画の言い分」なかった。というかちくま文庫はおろか講談社学術文庫岩波文庫もほとんどない。文庫本の法律棚になんで「千夜一夜物語」あるのだ。というのはともかく、天文学の本は一冊良さげなのがあった。東京大学出版会の本。ただ、はしがき見て2009年。うーむ、おそらくこの10年ちょいでもっと進歩しているよなーと。ジュンク堂とか紀伊国屋とかで、最新を吟味すべきかなと思い、断念。

 

現実世界について。

昨日の通話で嬉しくなった母親から朝一で体調の報告があった。1回目より楽だったらしい。良かった。

 

そうして、変な話だが、「現実世界でも日記で書いているような突拍子もないこと言って良いのかもな」となった。上司とこのご時世の雑談をしているときの話。この上司、何歳かは知らないが、俗っぽく寂しがりやでちょっと好ましい。出かけていないとやんわり濁していたのだが、ふと、「人が居ないところに出かけています。川とか森とか。」と言ってみた。

 

嘘だーと投げ返されたが、その単語ほど信じていない感触はなかった。とりあえず自分の世界にはない現象だから嘘だと評してみたが、年下上司男子の体調不良発言を信じていないという水準ではない。

 

語れば語る程、星人具合が露見するからあまりやらなかったのだが、別に無理してやらないとしなくても良いかなというくらいの緩み。僕の読書癖を職場の人に言ったら引かれるだろうが、引かれるから言わないというより、言う機会があれば開示して良いかなという感じ。

 

ここで、人の言葉の力について考えた。(足から体温奪われながらお手洗いに座って)

 

どんな言葉でも信じるか信じないか、肯定否定とは別に、どうあっても「認識されてしまうもの」が言葉。という意味からすると、一種の現実として作用している。もっと適切な表現は「環境」かな。環境に人格が作用されるというのは一般的な承認があるはず。

 

とすると、中身の言葉は嘘でも肯定的なもので溢れさせるってとても大事だよな。僕は言葉で自分を考えることはあんまりしていないが、現実的に失敗したときにも、許しの言葉を唱え続けるとかはとても理に適っている。

 

僕を読んでいる人が楽でありますようにという祈りとしての祝詞も、こういう環境レベルでは精神衛生に寄与するのかもしれない。と考えるとやはり言葉遣いって大事なのだろうなと思う。

 

これと同じ水準だが、言葉が環境にしか過ぎないのであれば、現実的に本音をもっと開示しても特に問題ないのではというところに戻る。琵琶湖一周してきたぜとか、そこで悲しみと出会ってきたぜとか、毎日30冊くらい並行的に読んでいるぜとか、3千文字くらいの文章書いているぜとか。これって、あえてアピールすることでもないが、相手の中で僕という人物が更新されるだけで、それに伴って自分を鑑みる人なぞほとんど居ないだろうし。

 

なんか、何をそんなに怖がっていたのだろうと、我ながら思う。

まぁ、あんまり変に突出すると変に注目されるという学童時代の経験則だろうが、今更そこまで気にする環境にはいないし。別に母親と隔絶したところで、僕の人格はなんとも揺らがない。その後でも勝手に気になるのだろうが。

 

という感じで、想い付いた発言はなるべく留めないようにしようとする試みをしています。

マイミクさん達、適度に付き合って下さいな。笑

 

さておき。

 

知識と思考力が凄いみたいな評価をいただいたが、そんなもの僕にあったっけと。

僕の独自路線かもしれないが、自分の中にある概念を知識とはしないし、意識的に考えるのもほんとはとても苦手としている。

 

知識という観念って、それを得る目的があり時間をかけるという手段を用いて得た財産みたいなイメージ。たぶんそうやってきたという自負とセット。僕はそういうのが駄目で、最近は覚えないようにしながら書物を読んでいる。覚えなきゃという意識が不純物というか、この意識で脳の資源が使われるし、この意識を持ったところで再現できるかどうかは脳の関門を通るかどうかだし。

 

人の誕生日もずっと覚えられなかったのだが、覚えるべき対象でないとしたことによって再現できるようになった。好きな人の誕生日は12月5日(推定)。

 

個人的な脳の機能を鑑みるに、それが再現できるかどうかというのは焦点が合うかどうかみたいなことで、知識という文脈ではない。まぁこれを知識があると評されるのは良いが、知識がありますかって聞かれたら、本音の僕は何も知りませんって答える。

 

思考力も難しい。

僕は特に地頭もないし、ロジカルシンキングもない。ただ、なんとなく非言語領域が考えていることを言葉として取り出しているというくらいだから、考え抜いてしんどいとかはない。ロジカルシンキングはやろうと思えばできそうだが、まぁまぁ面倒な感じ。これって答えに辿り着く方法ではなく、あくまで説明のためのものだし、僕はそこまで自分が伝わることに重きを置いていない。

 

仕事で話していて思うのは、人に伝えるために必要なのはロジックというより、相手に対する配慮だと思う。相手をちゃんと自分と同列の人と捉えているか。

 

ここで思うところがあった。インターネット世界における文意のやり取りってほんとに成り立っているのか。でも、省略。

 

ここから本題というか、僕にとって本とは。

 

本を読むようになったきっかけはなんだったのですかと聞かれた。

即答できなかった。

 

もともと、活字を自覚的に読みだしたのはあくまで娯楽の領域で、日本の小説家の本ばかり読んでいた。高校後半から大学時代。

知人には女性作家を読めない(性描写が綺麗過ぎるとか)人とか、村上春樹ばかり読んでいる人とかが居たが、僕は江國香織さんとか、美味しいコーヒーとか、守り人シリーズとか、まぁ結構雑食ではあった。

 

そうして、小説ばかりを読む環境から変わったのは、本の先生との出会いになる。司書をしていた人で、図書館にキャリーバックを持っていってはしごして狩りまくり、本の世界に没頭してしまう人。

 

ここであぁ、僕も好きに読んで良いのかとなった。

本との出会いの共時性を肯定してくれたし。

 

そうそう、ここまでは本はあくまで情報で、娯楽とか知識の為の目的という括りだったから、全然関係ない本を読むということができなかったのだった。

 

もう、ここから爆発。

 

本は自分にとって安全な存在ではなく、ある意味人と同じくらいの重さを持っている。

本との出会いは、自分の認識が更新されうるもの。だから偏れない。もうなくなってしまったブログサイトのタイトル「偏らない」だったな。

 

今更数学とか歴史とかを読んでいるのも、当たり前にスルーしてしまった世界の認識し直しであって、何かの役に立ちそうだからということではない。

 

なので、僕が本を読むようになったきっかけは、本の先生との出会いによって、本を自分と同じ水準の存在だと認識して良いのだと認められたからだと思われます。日記の中で作者に「さん」を付けてしまうのは、敬称ではなく知人感覚だから。近しい知人の言ったことって自分に否応なく浸透されるでしょう。(どうなんだろう)

 

僕が直に会話してみたいなと思った日本の文豪のトップは坂口安吾さん。

夏目さんは綺麗な文体だが、そこまで会話はしてみたいと思わない。梶井さんは無口っぽい。

 

本は人が書いているのだから当たり前のこと。

 

実際の人もこういう風に見ている。

僕は自分にとっての都合の良さ悪さで人を判断していない。近いから、長いから大事という感覚もない。というか、大事って主観的なものでしかなく、それによって大事だと思われるべきという正しさになると、うちの母親みたいに娘から音信不通になる。

 

人は必要な人に出逢うというのは真理に近い。何故かというと、必要というフィルターを通して焦点を当てているから。もっというと個人として認識できる人が必要であるということ。

 

面白い人とか、いじめてくる人とか、大事な人とかは類型で捉えている以上あんまり個人ではない。というか、自分を揺らがさない人って、あくまで自分の人生舞台の登場人物でしかないのではという感じ。

 

この話を突き詰めていくとややこしくなってくるのだが、別に刺激とか非日常のことではなく、相互の影響ということ。

 

時系列でポカしたなと思うのは、もっとこの自分であったら良かったなということだが、そこで離れてしまったのであれば、そういう縁起だったのだろうなとなっている。現実的に触れる対象だから好きであるということでもないし、よくここまでしがらみがない状態で生きてきたなと我ながらグッジョブ。

 

ちなみに、僕は年収最底辺レベルだし、そんなに高尚な人物ではないです。

自分の使い方によっては、嫁も居て、家建てて、車も所有してってできたかもしれないとは思わなくもないが、そういう俗っぽいことにはあんまり興味も執着もない。

 

なんの話なのか分からないが、すっきりはしている。

 

では、おやすみなさい。

 

良い現実でありますように。