細分化
さて、三連休前。そわそわかざわざわか、なんとも言えない気分。
そうして、これって一本調子ではないという意味で調子が悪いのだろうなと捉える。これはこれで面白い。あんまり出てこない憤怒氏が参戦している感じ。この気分のお怒りももちろん脈絡がないのだが、割と信用はしている。自分を守れていないようなときに出てくる。
調子がおかしいときには、自分の存在に重みがある。
熱が出ると気付くんだー、僕には体があるってことーみたいに。
ただ、この体という存在感も、眼差しで遊ぶときには脱がないといけない。
遊び方がおかしいのか、となりつつまだ遊び足りていない感じもある。
まぁ明日も遊びに行くし、畑成分とか森成分も補給できそうな予感。ちなみに鈍行でゆっくり行って、帰りは新快速とかにすれば同じ交通手段でも違う景色になるから問題ないなという感じ。
仕事では、唐突に女性上司が受かったのかと聞いてきた。結果待ちですと答えたが、ストーリーに整合性持たせようとして嘘付いているのもちんまり憤怒氏案件なのかもしれない。ストーリー上ではまだ一ヵ月ちょいは保留である。剥き出しにならないと出てこないところで、聞かれたということは、世界が展開を求めているのかもしれない。割とこの人僕のことどうでも良いのかなーと思っていたが、実は先生とか年下上司より気にしてくれている模様。
AB型は朗らかに接しているのが本質とは限らない。いや僕もAB型だから、発話を増やすの、本当はしんどいのだろうなと思いつつ雑談は聞き流している訳だが。これは本当は血液型の問題ではなさそうな気もする。もちろん血の成分が違うということは人格に何らかの影響を及ぼす可能性はあるが、それよりもなんとなく珍しく見られるという環境要因が影響している気がする。二重人格だという風説もA型とB型のどちらの性質もあるというところからの誇張と何処かで見たような。
まぁ、個人的には人の血液型はすぐ忘れる。外の人のはまぁまぁ残っているような気分だが、そんな分け方で人を見てはいない。あくまで社会的な傾向みたいな意味でしかなく。
先生も僕が受かれば良いと思ってくれている感じだから、良い人揃いの職場ではありける。あんまり一般的な意味合いではない。一般的な良い上司は、職場における場所を維持してくれることを評価するもので、仕事のモチベーションを上げるのがマネジメント上も然るべく。ここに居てくれて価値があるよとか、良いことをしたことを見てますよって表現すること。
なんか、日本の会社なのか、全世界的なのか知らないけど、良いことして当たり前みたいな感じよな。そりゃあ、悪くならない程度に手を抜いて仕事すれば良いになる。「学習する組織」でも、良いことをしたモニタリングは度外視されているような。これは外国の著者だから、褒めると増長するみたいな共通認識があるのだろうか。本当に悪いことを指摘することができないのは何故かみたいな話は面白い。世界線を壊すと影響が大変で、前より悪くなるかもしれないという懸念があるみたいな。
褒めるって、別に結果に対してするものではない。結果に対しては対価として返せば良いだけであって、結果を求める過程についての姿勢とか、気付きみたいな部分を認めることで良いような。全体的な褒めだと、部下も何に褒めらているか分からなくてフィードバックできないような。もちろん仕事量的に部下の動向はいちいち見てられないというのもありそうだが、目線をちらっと投げるだけでも得られる情報はありそうな。
僕は企業において出世していくルートから外れているけど、監視ではなく、所作が把握されているというだけで特に威厳は必要なく統制できるということはやったことがある。1人だけリーダー的にやってみたかったが、同じ立場で思慮にかける人が何人か居たから、ここの方が面倒だった。場を回すことが仕事なのに、何故か自分が一生懸命仕事しているとアピールをすれば仕事になっていると思っているリーダーたち。
あのバイト、思えばなかなか面白かったな。
数十人規模の派遣さんが入れ替わりやってきて、ちょっと長く来ている人は顔見知りになるから、同じ派遣の層の中で古参で大きな顔ができる。場末(ばすえ)のスナックを場末と連呼している人が居たが、特に訂正もしなかった。薄情者。
ともあれ。
昨日の日記がとげとげしいと評された。
そんなに攻撃性があったろうか。そう読めた人はどれくらい居るのだろう。
古参の人は勝手に僕マニアと捉えているから、モニタリングされている可能性もある。
だとすると本日もなかなか尖っているような気がしないでもない。
僕の棘はサボテンのようなもので、棘を飛ばすことはない。いや、飛ばす類のサボテンもいたような。触らなければ害はない、はず。
やれやれ。
明日は割と電車に乗る予定だから仕事が終わったあとに本屋に寄って、移動用の本を買った。北に移動する小説。最近のお気に入りは河出文庫。びっくりしたのはお風呂読書で読んでいるバタイユさんの「内的体験」が文庫化されていたこと。内的には面白いが、需要があるのだろうか、かなりややこしいというか、情報ではなく移動を訴えかけてくる本。感想が出てこない。パスカルの「パンセ」よりは分かり易き。パンセは信仰寄りだから、「考える葦である」くらいの情報で良い(また読み返すか)。醍醐味はその続きだが、考えることで自分で在るでもいい。コギトエルゴスムの世界観もいい。
北に行く話は完全にタイトル買いだったのだが、古き良き文体。石川啄木の詩からこの人に傾注して、云々みたいな。風景描写がまどろっこしくてさっぱり情景を喚起できないのだが、初めての人はそんなもので、馴れたらだんだん様相が分かってくるから問題ない。小説はそういうもんだ。面白さは、自分が食べてきたものと似ているかどうかより、今まで食べてきたものと違っていても惹かれるかどうか。
言葉ってソシュールさん曰く恣意なのだが、恣意だけで既定されていないから、恣意として括って学問する必要があったのだろうな。
やっぱり文章を書いているときが自然に近そう。
時間は押していても、待ち人はそれほど待ってない。いや、待っているのだが、待ちぼうけにはならないし、時間オーバーしてもそれによっては不機嫌にならない(他のところでは多々ありそうだが笑)。
という感じで、きっと時空がちょうど良い。
僕も恋人さんが小説の執筆に没頭しているような世界線があったらちょっかい出さずに自分の世界で待つだろうし。
惚気の道筋ではなかった気がするが、まぁ良いか。
書くことってなんなのだろうなと思ったら、エリクチュールの本の巻末の用語紹介で出てきたマラルメの生き様でちょっと、そういうことなのかという次第。エリクチュールの日本語の意味への変換はなかなか難しい。文体と言葉の中間領域にある書くこと自体と書いたところできっと誰にもしっくりこない。
マラルメの本はまだ読んでないから「さん」付けできないのだが、「書くことの最終形は書物になることだ」という生き様に惚れそう。表現物と人格が連動しないという職人みたいな人なのではという想像。表現に対する評価は当人の渇きを潤さない。
僕は書くことに対して書物になりうるのは構わないが、そんなに渇望はしていない感じ。
渇望しているから毎日書いているのだという意味も意志もない。どういう層の書物になるのかというのはちょっとありそう。動かない人の読み物になるつもりはない。
これは僕も実は動いて居ないのではないかという相対的な世界観もあってややこしい。
自分とはなんとも難しいから、他人の事も当然見えることだけではないとなるから、人と接するのが大変。
燻って居るのは移動の準備。
おやすみなさい。
良い夢を。