自然と道具

 

 

遊び惚けていて忘れていたことがもう1つあった。散髪。見苦しいという程は伸びていないのだが、主観的にもさもさ。月1回に切りに行く理容院で定例のように今回もよく増えましたねというネタのやり取りをする。

 

祖父が完全に白髪だった。遺伝しているのか。

僕はきっと何十年後もそんなに変わらないな、ということをなんとなく想う。

 

 

さておき。

 

本日は、面接を受ける夢を見た。転職気分満載。

もちろん悲観的なシーンではなく、ハイテク感があった。お互いノートPCが机にあって、面接をしてくれている人が、やり取りの中で母親の情報を検索し、なるほど、こういう感じなのか、みたいな。ちなみに今調べてみたら特に何も出てこなかったが、Facebookとかやっていたら一発で検索されるよな。そこまで面接に労力をかけるかはともかく。僕が人事だったら一頻り探るけども。ネットに対する意識が分かる。現実的な振る舞いと同じくらい大事なこと。

 

で、何年も資格試験の勉強をしていて甲斐が無かったことについて憐憫を向けられるというシーン。個人的には意味があることだったし、何も感じなかった。まぁ外から見たらそうなるのは分かりみというだけ。

 

外からと言えば、今日読んだ女性の記事。これ書くとある層から反感を買いそうだが、人の考えを先回りして想像して自己を制限するのは楽しくない。なんだか性性に違和感を抱いているとのこと。レンアイ観で自己を見られるのは困る、異性観の前提にレンアイがあるという感じが窮屈だとか。まぁ、年を経ればその目はどんどん減っていくだろうし、まなざしだけであれば特に気にする必要もないような。

 

人と人の尊重が前提にあるという考え方は高尚に見えるけども、これは言葉というか感じでしかなくて、では何をもって人なのかとなる。外面も内面も人の存在の範疇であって、良いとこ取りはできないし、自己を綺麗に調えるという外面って、そりゃあレンアイ的な世界になる。人のまなざしはコントロールできるものではない。もちろんこういうのが嫌だというのも分かりみで、自分の意図しない目で見られるということは多様性の世界なのだから、ありうること。この仕方なさは別に悲劇でもない。何をもって測るかをナカに寄せたら、きっとナカが相対的になるだけ。あの人の方が自分にとって良い人だって。その方向で競争できる自信があるのであれば問題ないけども。

 

なんだかこういう話を見るにつけ、多様性とか自由って誤解されてないかとなる。

自分のマイノリティ性とか自由を認めるということは、自分がほんとに嫌悪している性質の人のことも社会的承認しないといけないのでは。もちろん、今のマジョリティの世界観も含め。承認は賞賛とは違うから、攻撃しないというくらいで良いはずだが、これすらできなさそう。

 

社会は個人にとって必ずしも都合が良くない側面があるからこそ、ルールを作って共生できるようにしましょうってものなような。皆仲良くなんてできないのは当たり前。何年一緒に過ごしても情すら抱かない家族関係だってありうる。例えばこういう人に対して自分の当たり前の世界でやり取りしてないかとか。

 

世界に対して都合の良さを求める気持ちは分かるが、それももって世界に拒絶されるというのは、あんまり楽しく生きていないよなという感じ。まぁ性性は本能以上に文化的側面があって、なかなかややこしいが、レンアイ的世界は出生に寄与しているには違いない。

 

ちなみに僕も属性とか外面の内側の人で関係すべきという立場には賛同する。ただ、これで世界を観続けるってすげぇ難しい。自分がそう見られたくないの前に、自分が世界をそういう風に見ないといけないし。自分がまずきちんとできていれば、世界からの目は跳ね返せる。

 

自己の確立は比べなくても良いところにあって、そうだとすれば、1人1人が純然たるマイノリティ。こういう分類方法は人の情報量が半端ないが、その情報処理をし続ける気概があるのかどうか。記憶力とか理解力とかに際限がない世界。半端な自我だと爆散しそう。自分の自我の前提にある文化的な当たり前を常に問うことになる。

 

 

やれやれ。

 

この文脈で、性格診断の話。

良ければやってみてという記事を見かけたからやってみた。

 

予想通り、僕もINFPでした。

まさにその通りで特に反論もない。仲介者というネーミングが結構好き。僕の立場は人類総マイノリティだから、4%くらいの比率はスケールによってはマジョリティだろうと思う。だって、1億人の中に4万人も居る(計算間違いだったらごめんなさいする)。

 

説明文の、自分の内面に引きこもってパートナーやら家族が引き戻さないといけないというのは、割と人生史であったこと。心配して引き戻そうとする人達ばかりだったが、現在のパートナーさんは心配しつつ戻ってくるのを待ってくれるから好き。ただの調子だから、結局戻ってはこられる。もちろん、そもそも現実とはという哲学も忘れない。今のところ現実とは他の人とも共有できる文化的な世界観であって、特に物証もしっかりしていないし、真理でもないとしている。スケールを今生きている文化に絞ればその中では真理なのだろうけども

 

あと、「多くの人の話を聞き、わずかな人に語る」というのも分かりみ。

でも、これではいけないのだろうなとはなっている。あぶく銭を経済に流すように、自分の見識も流していくのが自然なような。

 

適職がないとか生きづらいとかもあるらしい。

僕としてはこれを楽観的に捉えて(楽観はINFPの性質の1つらしい)、職を自分で選べるし、生きづらさはそれをとっかかりにして生きることを哲学できるし、なかなか良い性質だとする。

 

自己表現に優れているとかシンボルとか比喩で話せるというのはまだできていないが、できるんだったらもっと色々できそうだなというくらい。

 

自分がどう生きるかの責任は、自分が負うしかないのであれば、これくらい緩い性質の方が可動域があるのでは。

 

ちょっと興味深いのが、「INFPだけの国が3日で滅ぶ」というフレーズ。

国家が瓦解するとしても、構成員がバトルロワイアルするとは思わないから、国家という枠が無くても社会が成り立つという意味で楽園ではなかろうかと想った。インフラとか経済的な循環は考えないといけないが、少なくとも他人を傷つけて自分の利とするような世界観ではなさそう。命令には従えなくても、楽しそうなことには自発的になる、みたいな。

 

僕は人の本質をそういうものだとしているから、夢想家と言われても仕方がないが、それほど夢想の中で生きている訳でもない。

 

待ち合わせに遅れそうだが、もう少し書きたい。

 

一応会社員として働いているから、僕の本質が社会的に不適合なことは知られていない。働いている時に自分が制限されているという感じもなくなっている。これはどうしてこう成れたのかの原因は特になく、なんとなく気付いたという非言語であって、流せない情報。

 

本日も古参の先輩と話していて、「仕事に手を抜いていない」と評される。たしかに左手で文字を書く練習とかしているが、きちんと仕事はしている。「手を抜かない」というのは、上司が見ているから頑張るみたいなことでも無理をすることでもなく、ここで自分ができることはきちんとするとか、無意識の怠惰に意識を預けないとか、そういう話。

 

できるようになったことに留まりたいのが無意識で、尊重はしているし感謝もあるが、その先でもまだ可動できるよな、自分、って。

 

仕事に集中しているかというとそんなことは皆無。

人間の自然は長いこと集中できるようにできてないからずっと同じように動ける道具を開発した訳で、意識は分散している。偏在の言葉を当てるのが適切。

 

道具の話はからくりサーカスでもあった。

劇場において人間の体は道具でしかないが、これは普通の人生でも同じこと。道具の扱いをどうするかというだけ。

 

省エネで過ごすためにもエネルギーが消費されている。

 

はい、時間切れ。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。