てんてんてん

 

 

枕が変わると眠れないことはないが、高さが違うと微妙に書きぶりが違うような気がしないでもない。帰り道では降ってなかったが、行く道では大雨。伊達メガネが息で曇り、もうもうとした視界で街の明かりが滲んで円を描く。

 

かなり視界が悪いのだが、車が通っていることは分かるし、人と行き交わすことはできる。ただ、人の表情とか何も見えない。でも、この視界でも生きること自体はできるよなと想った。微睡みの世界。ぼやぼやして楽しそうではある。

 

 

ともあれ、いま、ここは非現実。

非現実の中の日記は何かいつも違うところがあるのかな。読み次第。

 

 

さておき。

 

物語がてんてんてん。

台風一号がやってきているらしい。

台風のカウントは大晦日でリセットされるのか。

 

手の爪はエメラルドグリーンで、足はブラウンのベデュキュア。

いや、ただのフィクション。

 

 

そういえば、なんとなく読んでいる人が増えた感じだが、てきとーなことばかり書いていて、大丈夫だろうか。別に気にしてはいないが。

 

僕が考えていることはどこまでも自分の世界観でしなく。まぁこの可動性が全てなのだろうなとなってはいる。どんな世界も自分という鏡張りであって、何がどう見えるかということ自体に操作性があるということ。

 

自分がほんとに何を求めているかを分かっている人はほとんど居ないのではなかろうか。

僕は言葉を求めている訳ではないが、きちんと順を追えることが大事。概念の意味とか仕組みとか、あんまりスルーできない質。スルーすると、そこが空白になって世界が虫くいになる。これで良いのは人だけであって、ものごとに対する盲点がなるべく繋がらないと、世界として捉えられない。

 

捉えらない情報が記憶領域に収納されるのではと想っているが、検証はしていない。

 

とりあえず、繋げたい人。

 

対人の世界観はもっと難しい。

なぜなら、人は人にとって世界の一部にはならないから。観測できるだけにもならないし、接することで自分にも反響があって、人生劇場の筋をぶっ壊す存在。互いに。

 

だから閉じて自分を突き詰めるのだという世界も在って良い。僕はそういう人は好ましい。ただ、人と自分の捉え方がアンバランスなのは、世界に調和が保たれないだろうなという気はする。

 

世界観における自分は主役でないし、相手も単なる登場人物にはなり得ない。

ここにおける主役は人格ではなく、観測する目であり聞く耳であり触る手という観測手段になるから。

 

スピリチュアルな世界観も、物体的な人生論も諸々全部まるのみした後に大事なことは、結局のところ、自分がどれだけ世界で笑えるかというところな感じ。

 

「共通感覚論」で、分裂的な感覚がある人の言で、当たり前が分からないというより、正しいそうなことと間違ってそうなことの境界が分からないというのがあった。まともな人は、この曖昧性をてきとーにないがしにろできるバランス感覚があるという話。

 

これって、当たり前っぽい虫くいの観念を見ないようにできるということであって、僕も別にできる部分ではある。ただ、僕はこの虫くい性を世界の他責にできないから、陽の者としての社会にはあまり馴染めないところがある。

 

人とか世界のせいにできる人は陰の者でも明るみの人だと思う。

 

それにしても、今日は全然文字数進まないな。やはり、机が高いから文字が外れるというか。

 

もう良いか。

 

今日はここまで。

 

はい、おやすみなさい。

 

良い夢を。