さわり

 

 

会社の自販機で水を買うと、もう1本の当たり。最近運周りが良くなってきているから、意識していたのだが、本日は意識が抜けていた。こういう隙間に入ってくるのか。運。知っている人が周りに居る時に当たったら、どうですかってお裾分けするつもりなのだが、なかなかそのタイミングで入らない。随分遊べそうなのに。

 

運も巡りを捉える概念の1つであって、物体がある訳ではないし、体調の波とも違う。運は使うとより入ってくるのではという発想。ただ、どう扱えば良いのかが分からない。思索を遊ばせていたら、使ったら入ってくるというよりは、掬える器が大きくなるのではという感じ。そういう世界線が自分に起こることを信じられるようになるというか。

 

そういえば、先週土曜のちょっとした雑談のとき、先生も世の中には「遊び」が大事だって言っていた。余白の意味。

 

運と遊びはなんとなく似ている。

どちらも世界線の移動というか、変化に係っている。世界線って大げさな語用だが、人生における大繩飛びみたいなイメージ。

 

似たものを自分の中で繋げていくことを楽しんでいる。

 

続きは後にして、少し日記。

 

昨日は1本飲み過ぎた。6本と7本では朝の顔が違う。7本の朝は、かつて見た父親の顔と似ている。たぶん父親が父親になったくらいの年齢周辺だから、この顔は外からよく見た顔。精神性も似ていたのだろうなという感じがあるが、父親と僕は別々の存在なので、同じ道を辿る気がない。というか、辿れない。病むことを辞めて止めたし。

 

仕事は大丈夫かと思ったが、全然問題ない。同期がちょっと困っていたからおせっかいで知識をお裾分けしたし、古参の先輩には権限がない分野で手伝ってもらう。そういえば、これも土曜日の先生。もっと情報が共有できるようになれば良いのにとのこと。考え方仲良しか。

 

お昼休憩。勝手知ったる我が弁当。我ながらちょうど良い。ミニトマトを欲していて、オリーブオイル、白だし、ドレッシングビネガー、塩昆布の我流マリネを作ったのだが、完成度高い。それに買ったミニトマトが当たりで甘い。木曜日まで残して振る舞おう。

 

帰りに、どうしてもメタバースの本が欲しくなる。通常なら昼休憩に買っておくし、この前の日記で専門書待ちと書いたが、僕は楽しそうなら平気で前言撤回する奴。小走りでリブロに行ったら、30分前くらいに終わっていた新人さんがまだ居て、るんるん小走りを見られてしまう。向こうが僕だと認知したかは知らないが。

 

ビジネス本で文庫より一回り大きい、そこまで文字数もなさそうな本だが、何故か1600円。相場感だと1000円くらいの重み。学者さんが書いた本ってだいたい総じてブランドバリューで高いのだが、学者さんでもなさそう。たしかに立ち読みした味見で美味しそうではある。問題ない。

 

 

もの読みとしての性質で素晴らしいと自賛していいのが、食わず嫌いがないということ。偏屈なのは確かとしても、それを食べ物に反映させない。食べたことなくて苦手だけど、良い情報があるかもしれないから無理矢理意志で食べてみよう、ではなく、苦手だったから食べてみようという開拓。

 

知識の習得は特に目的としていないから、専門用語みたいな定義はあまり残らない。分かりたいのはその分野の判断方法とか捉え方みたいな世界観だし、これは枝葉から追っていくと時間がかかってしょうがない。まぁその分野の幹を表現することは精通すればするほど難しいだろうし、根っことなるとなおさら。全体像が把握されればされるほど細部が重要になってくるという想像。自己紹介が事務情報とか経歴になるのは、自分に精通しているからかもしれない。

 

メタバースとWeb3の本。涎(比喩)通りやっぱり面白い。世の中の賢い人達はビジネスの開拓場所みたいに捉えているみたいだが、僕としては人間の本来に近い場所っぽいなと思う。何をもって実在(臨場感)とするかみたいな話があって、まさにこれは哲学とか脳科学が追ってきた領域。

 

Zoom飲み会が流行らなかったのは実存感がないからだとか。僕はしてくれる人が居るならやってみたい領域ではある。面白そう。ただ、面白くなかったらしい。で、その原因は、言葉ではやり取りできるけど、表情とかの肉体的反応がリアルタイムではないからだとか。そんなことで人を把握しているのかという感じだが、ともかくとして。

 

この分野では人が実存感を感じるのは、「解像度とレスポンス」ということらしい。たしかにこの情報が現実と同じようになったとき、人はネットワークの社会でも生きていることになるのかもしれない。痛みとか不都合なレスポンスはカットされるだろうし、ある意味ユートピア。僕は別にユートピアが悪いものだとも思っていないから、良いことなのだろうなとは思う。

 

Web3の方は経済寄りで、仮想通貨界隈らしい。

これもちょっと気になる。運試し投資とかではなく、構造として。通貨の信用に対してどこかの国家の後ろ盾がなくて良い仕組みって、国家の設計思想が瓦解するのではとか。物理的(これも比喩)な国家が部分的にも崩壊したら、なかなか面白そう。これが進むと国家の前に銀行が解体されそうだし、解体しても良いのかも。手数料ってやくざな娑婆代な感じ。もちろん僕はあんまり気にせず支払っているが、これってなんでだろうって、素朴思う。

 

貨幣制度の話。

パートナーさんが塾の先生に「お金は使うほど入る」って言ったら一笑に付されたらしい。たしかに使ったら減るのが現実だし、先生はその現実の世界観で見ているから笑っても仕方ない。

 

哲学少女ちっく。

貨幣制度の最初を考えると、塾の先生よりパートナーさんの考え方の方が真なような。

僕はそこまで歴史を厳密に追っている訳ではないが、お金のそもそもって、選択肢を成果以外に使えるという可能性を拡げる世界観であって、財産を蓄えるみたいなコンセプトではないと思う。

 

パン屋さんも肉を食べたいこともあるし、麦農業とか畜産家だって設備を投資したいっていう循環の道具として発明されたのが貨幣なのでは。現物交換では世界が回らなくなったから価値という媒介を設定して、他にも回るようにした。という理念からすれば回せば回すほど世界から回ってくる。滞留して資産を蓄える考えはきっと無かったと思うのだが、これは別の理念から来ているはず。

 

(何教なのだろう)

 

自分が見ている世界を正としたい衝動は分かりみ。

ただ、その世界がほんとうに自分の見たいものなのかというのはまぁまぁ微妙。

 

僕がクリアになってきているのは海辺のカフカ的に石がひっくり返っているからなのだが、寧ろ世界が自分だけのものではないという世界観とセット。もっとお裾分けするくらいの余剰が自分にはあるみたいだという感じ。

 

 

たぶん昨日の続き。

 

自己の存在とはなんぞやとするとき、自意識だけが過剰だと体が透明に把握される。

空間が狭いと自分の肉体が障って、閉塞感があるとか、自分が歩いているときに自分の肉体を物質的な重みとして感じているかとか。

 

人の体が最も透明になるのは、誰かとの別れ際。

 

何か障りがないと自分の体すら把握できないのが普通の世界観なのだろうな。

僕はもうこういうのはやめた。ちゃんと身体とも生きている。

 

ここまでか。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。