しきつめ

 

 

 

 

同窓会の夢。現実では20歳過ぎ以降参加していない。夢の中では結構楽しんでいた。たぶん今だったら社会的当たり前に耐性付いているから大丈夫な気がしてきた。陽キャヒエラルキーに何言われてもダメージを受ける気がしない。現実生活への愚痴と過去の思い出で暖を取る以外の話ができる場であれば参加しても良いな。かつてのクラスメイトは自らの足跡をどのように表現するだろうか。

 

 

注文した段ボールが届いたら仕事前に4日に分けて引っ越し本を梱包しようと思っていたのだが、本日は出逢えず。明日午前中に再配達にして休憩時間にガムテープも買ってきたし準備万端。休みの日にはあまり回したくないので。

 

数分早めに起きたから出勤にも余裕がある。ということでピンクの絨毯の様子を探れるルートを選択。すげぇ、全盛期。お裾分け画像。ただ、肉眼で見るのとは全然違う。肉眼で見える景色も人それぞれとは思うが。

 

 

運試しが調子良いからたぶん調子は良い。ただ、仕事の最中の気分はなんとなく心許ない。調子が悪いのか感傷なのか未分離だった。そもそも未分離なのが気分だし完璧で健全な理想的な人格なんてプラトンさんが言うところの概念上のイデアみたいなものだろうなとお手洗いの便座に座って想った。調子が変動するのが当たり前。

 

宿題めいた引っ越し作業が残っていることが余白を圧迫しているのかと考えたが、時間が迫っているのが問題ではなく、なんとなくスケジュール調整が決め切れないだけであって、全然圧迫はしていない模様。現実のタスクに圧迫されていたらのうのうと本なぞ読めない。いや、僕は圧迫されないために本を読み続けている節もある。現実逃避でも現実投資でもなく、遊びの空間を内部に施工するための読書論。

 

僕の読書が現実生活に具体的に効用を持ったことなんてほとんどないような気がする。現実感が楽になるという作用はあるが、読書で気晴らししたからでもない。そういえば、きばらしとしての森成分も今やあんまり要らないかも。森成分は何かからの逃避ではなく、単にスキだから摂取したいだけという感じ。

 

 

お昼ご飯はオリジン。チーズチキンカツと弁当と、トマトとゆで卵とブロッコリーとアスパラと何かの豆が入ったコブサラダ。勝手に空中庭園と呼んでいる公園の植物園スペースがやっと開放されていて、二重に美味しくいただく。手入れが行き届いている。かつて妙に人懐っこい猫氏がやってきてごろごろスーツに毛を残していった場所。本日はスズメが2羽ほどちゅんちゅんしていた。

 

そういえば、かなり忙しそうな上司の上司と少し雑談。結婚による転居という退職理由は失業保険的に優遇されるのではというアドバイス。満月さんと民法上の婚姻契約を結ぶかどうかは定かではないが、離れる理由が生まれる気はしないから、そういう方向でハローワークに相談するという手もあるのか。そこまで無職期間を延ばす気もない。なかなか見つからなという事態が起こったらアルバイトでも派遣でもやってルーティンを確立すると思われる。

 

あと、今週は僕が最も遅いシフトで、次に古参の先輩が残っているから少し話す機会がある。何やら尊敬されている模様。仕事しながら資格試験の勉強をしていたことに対してなのかどうかは分からない。外にはあまり出さないけども優秀だからため口で話しているのが申し訳ないみたいなことまで言われる。いや、全然問題ないですよって返したが、この人、経年で人を判断していないのがとても好ましいと想った。たしかに特に高圧的に後輩に接していない。

 

送別会の状況がどうなっているか分からないけども、誘ってみようかしら。

 

 

そうして、重ねてたしかに、外に出していないところで考えていることはとても多い。ただ、別にここには呪詛は全然なくて、単にぽえーっと世界の凄さを思索しているだけだし、自分だけが得する世界なんて求めていない。二元化された世界観って、単に分かりやすいから創設されたものだと思っている。分かり易さはもちろん大事だが、分かり易さだけを掬っていくと取りこぼすものも多くなる。取りこぼしが完璧に無くなる人生劇場なんて存在しないけれど。

 

 

やれやれ。

 

村上さんの小説の話。ネタバレとかではなく、1つの源流に「純粋な好奇心は理解されない」という概念がありそうだなという解釈。マルクスさんの貨幣論で、理由のある衝動が貨幣によって現実化されるという精神と現実を媒介する世界観がある。ここには現実を目指した精神しかない。これも分かる。お金があればもっと現実が自由になるって。個人的な劇場論だとお金があったところでそんなに自由にはならないという説なのはともかく。

 

純粋な好奇心は、現実的な地点を目指していない。目的地がない精神を人は解釈できないから、いちいち○○のためだと大喜利的に言語化するしかないのではという説。何か裏があるのではないかって。

 

1例で言うと、僕は興味で遊ばせた時期があって、直近の元恋人さんに、貴方に興味があるのだとホテルに連れ込んで何もせずに寝るだけで一夜を過ごしたことがある。一緒に居ることって、何か現実的な成果があることが問題ではなくて、一緒に居ることそのものだから、そこに理由は特に必要ない気がする。

 

この元恋人さんは、僕が当人を好きではないということが懸念でお別れすることになったのだが、なんというか、スキだから何かするという条件関係でしかない恋人関係は不毛な気がする。こここそ感情論ではなく現実論であって、人の気持ちなんて現実的に手に取れるものでもないし、証拠が言葉なり行動しかないのは市場っぽい。信頼の置きどころが自責ではないという意味。

 

僕が送別会でぶっちゃけてめちゃくちゃ並列的に本を読んでいると言ったらどう解釈されるのだろう。凄いより、こいつ変人だと思ってくれる人の方が個人的に関係できそうな気がする。

 

ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。