影響

 

 

 

 

ぼーっと過ごす1日。インプットもアウトプッチもせずにゲーム動画を眺める。こういう日はほんとに大事。したいことから逃避した暇な日ではなく1日を無目的に浪費すること。

 

ほんとうはアプリの運試しが良い感じだったら現実でも遊びに行こうかと思ったが、完全に仕上がった調子でないと1人では行かないことにした。先に調子を測ったところで何か意味があるのかという感じだが、運ってそういうものなような気がする。運がカロリーみたいに消費されるものなのかというのは微妙なところ。運が良い人は運が良い現実を当たり前としているから運が良いような。僥倖みたいな感覚ではなさそう。当たり前に対して感謝をすることも大事。

 

僕はお金よりちょうど良い本がどっさりやってくる運勢の方が楽しい。

昨日みたいに。お金がいくらあっても知らない本は買えないからやってこない。

 

やっと運試しが仕上がってきたという非肉。笑

 

 

さておき。

 

朝ごはんは冷凍ごはんとキャベツのざく切りで雑炊。当初は卵を入れるつもりだったがなんとなくあっさりで良いかという気分になってやめた。昼ご飯は適当に満月さんにもらったお菓子の残りをかじり、夜ご飯。鯖缶とひじきと人参とネギの煮物と、春菊の鰹節あえ(ほんとは胡麻和えにしたかった)、どんぶりサイズのベビーリーフに生ハム3枚と目玉焼き半分を乗っけたサラダ。村上春樹の小説にでてきそう。いや、彼の小説には鯖缶は出てこないか。スパムとかならありそう。

 

 

今日観ていたゲームの話でもいいし、なんでも良い。

 

書くことが尽きないというのは、基本的に毎日本を読んでいるからではないな。毎日生きているだけで日記的に書くことは尽きないと思っているし。これってたぶん文字情報的表現は自分のスケッチでは足りなくて、何か有用性がないといけないという強迫観念があるような。これって表現の自由の保障根拠のかなり古典的な時代の思想の自由市場の観念が背景にあるのだろうか。

 

あくまで個人的な見解だが、表現を規制したり自主統制したりするって凄く迂遠。たしかにどういう情報が世の中に流通しているかによって世間が影響を受けるというのは分かる。ここ数年のご時世でだいぶ皆分かったのでは。事実が流通している訳ではなかったって。

 

ここはかなり微妙な問題で、ばっさり決めてしまうことはできないけどなんらかのよろしくない背景に基づく表現(言葉)を断てば、背景が消えるみたいな影響論の論法はどうもおかしい。言葉として表現されなくなった現実は外から見えないように残るだけのような。

 

こういう意味で表現の善し悪しが問題とされるのも表現って不憫だなと、情報法を読んでいて思う。言葉に対して真摯になろうとすればするほど、社会的な検閲の壁を感じない訳にはいかない、みたいな。

 

表現の自由の保護って、情報からの影響を受けやすい人に対して国家が中立であるべき、なんなら国家を政治的に批判する言葉でも、というイメージ。そうすると、情報自体は中立的というか無価値なものであって、相対ではなく絶対の位置にあるような。

 

要は、表現の意味は、発する時に決まっている訳ではなく受け手に委ねられているのだが、受け手から逆算して発するというのはどうも違う。個人的は性描写について特に思うのだが、ここを非公然的にしているから、禁酒法の時代みたいに、変にこじれて暗躍が起こるのではみたいな。何を想っても書いても良いけども、実害を相手に与えたら刑法がやってくるよで良いような。その前のセクハラ発言みたいなのは、なんというか、法とか社会とかが介入するところでもないような。ここを保護しなきゃいけないって、なんというか成人が独立した人間であるという理念と矛盾している。立場的に抗えないみたいな世界観もいまは無くなっていると思われるから、この変の思想も変わってくるのだろうか。

 

いまや社会的にも法的にも弱くないのに、弱さを傘に着るのはよろしくない。

こういう振る舞い自体が家父長制の名残みたいな気もする。

 

 

なんか変な話になったが、僕がセクハラ発言したいということでもない。受け手の問題だとしたらどんな発言もセクハラになりうるから、なるべく発言を控えるしかないというだけで、こういう語用の世界ではあんまり生きたくないなって。言葉のままで他人に言葉が読まれない。どこにでも社会的刻印がある。可愛いと言葉のままで表現できるのは恋人さんだけとか。

 

 

やれやれ。

 

「悲劇の解読」で、太宰治の世界観は類推では辿り着けないという話があった。人間が分からない人太宰さん。現代精神学だったら乖離性なんたらとか認定されそうだが、自分の基準が他人に適用できないという感じは結構分かりみ。ただ、僕はこれを淋しいことだと思わなくても良いとなったから、現実から退場するには至らない。

 

ここは別に実体験からの類推でもない。この人はそうだったのだろうなという想像で埋めただけ。別に理解もしていない。

 

ここで想ったのが、分からない物事を分からないまま受け入れるということが人にとっては難しいのかなという印象。分からないものを分かりたいのは好奇心ではなく安全を拡げる所作だし、分からないものって不安になるのか。

 

だから、なんとなく自分の体験則に適合するように分からない世界を分かるように解釈したいという人生劇場。

 

別に悪いとは思わないけど、そうなると一生不安は尽きなくて大変。

 

こういう分からない世界を分からないまま採り入れる為に文字情報での創作があるという説はどうだろう。童話とか意味分からないけど、最初の世界として採り入れられているし。

 

はい、強制終了。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。