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昨日受け取れなかった実家からの荷物を受け取れた。家に着く直前に配送車を見つけて、これだろうなと思ったのだが、こういう時に声をかけて見るのはどうなのだろうとなってやめた。不在票を出力したのに配達できたとなったら、システム上どう処理するのだろう、面倒でないか(あとから満月さんが再配達も面倒なのではと見解を示し、たしかにそうだなともなった)。

 

案の定不在票の時間は家に着く5分前だった。

 

本日は諸々の家事をこなしながら待っていたのだが、なかなかやって来ない。お風呂に入れないから、お風呂読書をお風呂に入らずに読む。30分くらい待ってみて半分の20冊くらいを通り過ぎ、溜めた湯船がもったいないから足だけ浸かることにした。なんとなくリッチな気分。

 

結局配達予定時間のほとんどギリギリにやってきた。もちろん範囲内だから文句の付けようはない。早めに来てほしかったのは単なる希望であって、それが崩れることに対して怒りもがっかりもない。昨日も同じ時間帯で、早めに来たら居なかったから配送ルートの最後に回したしたという気遣いというか合理的判断の可能性もあるし、そうだとするとむしろ仕事ができる人。配達できているし。

 

 

まぁ、配送の仕事はしたことがないからあくまで想像に過ぎない。でも、実際に経験がなくても想像できるのが人間。サンプルが少なすぎる幼少期であれば体感を受け入れるしかないが、ある程度増えれば、自分の知るべくもない世界があるのが当たり前にできるはず。知らんけど。

 

こういう世界観だと、無駄に期待して裏切られたみたいなことにならない。

どこにも固有の事情があるし、そういう意味で自分の都合の良いことばかりわがまましていると社会が成り立たないし。

 

昨日辺りからある思索の塊。

人は自分の精神界の現象(感情とか感じ)とかを物理法則になぞらえて捉えているのでは。だから平気で怒れる。たしかに心理学が考察している心理的な状態の動きの一定性はあると思うが、これは物理法則とか文法法則とかと同列の必然というより、そういう傾向がある人が多いという習性みたいなものであって、特に受動的に受け入れる必要はなさげ。

 

今朝、寝不足の二度寝前に隣人が洗濯機を回していたのだが、全然不快感がない。まぁ深夜と早朝に洗濯するのがどうやら好き(この時間帯に洗濯せざるを得ない事情があるのかもしれない)なのだろうなというくらい。結局気分によって世界への反応が変わるだけのことであって、問題は世界にある訳ではない。自分が詰め詰めだったら水滴すら大音量で響く。

 

運試し場の体感はこの辺りが生々しくて、面白いのかもしれない。

単にそこで遊ぶのが面白いというのもある。さっさと滞留しているあぶく銭を世に放流せねばだが、明日からの3日でほとんど流れていく予定。養蜂場の美味しいはちみつとか地酒とか露天風呂付客室だとか。

 

何があってもご機嫌な世界線に移動したから、こういう意味でのノイズが随分と減ってきている。どんどん余る。

 

 

仕事も普通に楽しんでいる。ただ、余計なことも考える。株式会社のシステムにおける目的。営利な法人(法によって虚構的に生まれた人)は利潤を得て構成員に分配することが存在意義なのだが、分配される対象は労働者ではなく株主というフィクション的な存在を割合的に所有している人。なんでここをずらさないといけなくなったのか。全然自然でもないのに。

 

どうでも良いが、仕事場における人ってほとんど不動というか既定路線を動くのだな。

知識を得て解決量は増えても、性質は変わらない。経歴が下の人に対しては敬語を略して良いという感覚も体育会系であんまり好きではない。たぶん威厳みたいなところなのだろうが、先生は誰に対しても敬語を崩さないのに威厳があるから、態度というより存在感なのだと思う。僕は下っ端精神だから、割とどんな先輩もフランクな言葉遣いになっている。そういうとき僕もフランクで返すけども。

 

僕は割と日常的に頭を回しているからこんなんだが、逆に周りの人がすげーって思う。その知識なんで残っているのだとか、そこでそう判断できるのかとか。人って凄い。

 

ちょっと戻して、大きなことをするためにはたくさんの人から資金を集めないといけないというのは分かるのだが、そういう意味で国家がある訳で、まぁ国家は営利ではなくて公平を追求する理念的な存在だし、余剰を創造するには不向きではあるなぁとか。物理的な有形力の行使を独占している時点で最強の現実的存在ではある。資金も使途がしっかりしていないといけないがかなり潤沢なはず。なんでかつかつになっているのかがよく分からない。

 

こういった意味での大資本をテーマとして書いているのが村上龍だという記事を今朝読んで、追加したくなった。本屋さんに行くと「む」の棚には村上春樹さんばかりで、「男はみんな消耗品」しかなかった。

 

村上龍はあまり読んだことがない。社会派みたいな本が読めなかった節。ただ、今や社会って自分で見えるものより外にもあるし特に決まって居ないという見識を持てた。共通項も別に個々の局所的な社会の最大公約数みたいな意味ではなく、もっと感覚的なものでしかない、既定され得ないもの。暫定的なイメージだと、電車ごっこの縄みたいな、緩んだり張ったりしている局所がある中にあるのが社会。

 

もう少し探してみると、何故か新刊棚にあった。「missing」。読書界も映画界みたいに過去の復刻版みたいなことをやっている模様。目当てのタイトルではなかったからいったん保留したが、立ち読みした感じだとむしろ合っているのかもしれない。ちょっと安部公房感がある。

 

本と言えば、そろそろ濃厚な専門書を追加したい気分。できれば社会科学系。

静岡旅行道中で大きな書店をリクエストしてみるか。満月さんも詩作界隈の本で目が輝くから本屋デートも楽しい。

 

 

本を読むことについて僕が書こうとすると、きっと頓珍漢になる。

ショーペンハウアーさんの読書論はまだ読んでいないのだが、きっと近いことを書いているという予想。

 

本を読めば世界が拡がるみたいな受動的感覚だと、結局自分の外にあることは排除される。

本は別に自分の外に連れ出してくれるものではなく、外に他があるよって種を蒔いてくれるだけ。

 

逃避の手段でもないし、自分の世界の中で読むものでもない。

読書感想文で自分に引き付けてしか読めない人は苦手。せっかく外にあるのに自分のメガネで捉えるというのはちょっと無作法では。

 

まぁ、世界の感知の仕方というのはそれぞれだから別に文句もない。

僕自身にそれをされたら、対応は考えるけども。でも、属性とか傾向とかで捉えないで想う人が相手を同じ基準で見ているようには見受けられないのもある。まぁ脳エネルギーのリソースもそれぞれ。

 

脳汁回転で、法律学統計学はなんだか似ている気がした。

どちらも素朴な人一般に対する判断を洗練させている模様。僕の素朴はあくまでその人を固有に見るのだが、ルールとか一般論で捉えると、こういう判断になる。この意味での動機とか発端みたいな言語は因果の説明だから大事とは思うが、満月さんには説明する前に既に現象があるから説明は蛇足感があってしない。

 

自分のことを話すことに特に快楽もない。

酒の席だと良く話すのは、ブーストしないと話せないということではなく、単に肴として聞かれるような情報でしかないとしているという説。別に自分のことを聞いてくれる人が居なくなっても自家発電で存在観は問題ない。

 

法律のルールとか統計的な傾向はほとんど意味があって、その意味に基づいているのであれば特に問題はない。ただ、そのルールにほんとに合理性があるのかというのは問題。ほんとに打てば良いのであれば法制化すれば良かった。できないのであればそれなりに理由がある。

 

電車で降りる人優先なのは法律のルールではないが、先に乗ったら降りる人が降りられなくなる可能性があるという意味で理に適っている。駐車場の順路を反対側からやってくる車も危ないからアウト。

 

理に適っている社会的なルールであれば従うことに疑義はなくて抜かす人はやべー人と思うが、理に適ってないのに従わないといけないルールはちょっと待とうかとなる。

 

こういう世界を観たあとで考察すべきは自分の中にあるルールだと思う。

本を読んだり世界を取り入れたりする効用は、ここにあるという説。

 

はいおやすみなさい。

 

良い夢を。