再演

 

 

数日振りの我が家。電車から見ていたが、最寄り駅で降りた後にカメラアプリで撮っていた人が居た。たしかに綺麗だったが、画像で共有する情報はあくまで二次的なデジタルだから、アナログの自分の目に焼き付けた方が良いような。アナログ情報はデジタルに変換したときに何か劣化するというか、画像を残す意味があまり分からない。

 

いや、良い道具を使えばアナログの再現に近くはなりそう。良いカメラって目で見たように撮るというより、視覚を通して脳内に保存された画像に近くなるのではと、ちょっと想像する。解像度とかではなく、もっと中に残るもの(意味)に近そう。むかーし観に行ったソールライターの写真展で、画を切り取ったのとは違う印象で言語化できなかったのだが、ふと本日言語化できた模様。いい写真は単に時空の一瞬を切り取ったものではなく、意味も一緒に撮られている。

 

mixiで弁当を作った日は撮って貼っている。映えとかは全く気にせず、きちんとバランス良く食べていますわというお友達への生存報告みたいな意味合い。いやちゃんと美味しいですけども。

 

さておき。

 

時間を戻して朝から。

遊び惚けているが、頭は全回転状態で楽しい(運試し脳)。

 

昨日はビールしか飲んで居なかったから、問題なく朝ごはんが食べられた。食堂はこのご時世で席数が限られていて満杯。詰まっているから早めに出ようとか部屋用の容器に入れるとか、そういう感覚って起こらないのだろうか。だから人が多いところって好きではない。行列も苦手。僕らは部屋で食べました。パートナーさんはもりもり盛って、やや許容オーバーになっていた。

 

呼称が代名詞(抽象名詞?)なのがやや窮屈なので変えようという気分。

文章上は今夜綺麗だった満月さんとする。丸いからかと文句を言われそうだが、満月って綺麗じゃんと返せば安泰。

 

こういう時にしか見ないテレビ。鈴鹿サーキットに人がもりもりしているシーンとか、交通事故とドライブレコーダーと監視社会とか、明日から旅行キャンペーンだとか。旅行キャンペーンの条件、完全に矛盾していると思うのだが、感情論としては分からなくもない。目的と手段が全然一致していないが、そんなことより社会的な因果の方が安心という意味で大事なのだろうな。

 

そうして、満月さんの職場へ。もう何回も行っているから、何処に喫煙所があってどこにトイレがあってお店の配置とかも勝手知ったる。とりあえず、海で散歩。イベントが無い時期だからか、家族連れが1組しかいない。とても良き光景。小ぶりの雨。傘はだいたいどこかに置いてくる。シャアーアンブレラの社会で良いと思う。どこにでも共有の傘が置いてあって、移動先の傘置き場に置いて帰れば良い。家に置いていたとしても一次的な滞留であって、それは流す物とする。だって、溜め込んだって資産になる訳でもないただの限定的な移動ツールだし。

 

傘論はともかくとして。

 

僕は車を所有していない(免許は持っている)し、特に所有しようと思わない(だってお酒を飲める機会が減る)のだが、道行く車のナンバーの地名が気になる。何故だろうなと思ったら、たぶん、その車に乗っている人がどこから来ているかの来歴が分かるから。地名が現在地とずれていたら、転勤なのか旅行なのか何某かの世界線の移動がある訳で。

 

海を散歩しながら、けども来歴を突き詰めると、人って人としての存在でなかったところからやってきて、人に成って、また人でない存在にさっていく一過的なものでしかないよなぁとなる。

 

お勉強時代に読んだ国語の漢詩にたしかそういうのがあった。

調べたら松尾芭蕉さんだった。残っている音はほぼ一致。

 

「月日は百代(たい)の過客にして、行きこう(交う)人もまた旅人なり」

 

専門的な解釈は知らないけど、人も物事も、人生という旅の景色みたいなものという話なのかなと。僕は居場所を保持することに重きを置いてないし、皆旅している道中でたまたま邂逅するってめちゃくちゃ楽しくないかと解釈する派。僕が言う縁は「場」がたまたま一緒だったという話ではない。場に居ればそりゃあそれなりに関わるし、懇意にはなるかもしれないが、それとは別になっても関われるかどうか、これは純粋な意志とか志向の話。普通は関わらなくても良いのに関わりたいと思う場外の移動。

 

僕が人と縁を感じるのはこういう文脈。場でなんとなく気分的に一致するということはままあるし、場を保つためにやっているかどうかは分からない。

 

そうこうして、満月さんの同僚の新キャラにも顔見せしようかという気分になったが、やめといた。観たいだけなら別に見せる必要もない。雨が激しくなってきて、止んだら出るかという気色になったが、雨によって自分の行動を変えるのってらしくないなっておかまいなしに駅に向かう。雨は小降りになっていくのだが、内湾(?)に魚の死骸がいっぱい浮かんでいてなんぞやとなった。雷でも落ちたのだろうか。

 

その決断の遅さをあざ笑うかのように、あと3分早ければ乗れていていた電車を見送る。

まぁ、うしおととらを読み返す時間ができて良き。満月さんにからくりサーカスとうしおとらのどちらが好きなのかと問われて、うしおととらだって言ったけど、感涙できるのはからくりサーカスかもしれない。哲学的。うしおととら遠野物語をベースにしているから、そうしても妖怪漫画的になる。いや、最終局面の「もう食ったぜ、腹いっぱいだ」はかなり泣ける。幸福とは何ぞやの漫画。

 

白面の者が何のメタファーだって、何者にもなれない怨嗟だろうな。

今日ここは書けない。

 

やらやれ。

まだ運がくすぶっているみたいだから、豊橋の運試し場へ。

エヴァンゲリオン1回転目でレイ背景からの確変で、びっくり。隣の隣で打っていた人にもびっくりだったらしく、世界線を越えて話しかけられた。「何回転ですか。」、指を1本立てて返す。当たったことより話しかけられたことに対してびっくりする物語。

 

また勝ってしまったのだが、このあぶく銭は今週末の静岡旅行に流すから滞留はさせない。

あと満月さんのアイフォンを新調。資本主義社会で場所を取れない人物。いや、資本主義って基本的には流していく世界だから合っているのか。運試し場さえ自分の物語に侵食している・

 

お金を持った時に何に使おうとするのかというのはダンデライオンの世界観だよな。

1億円あったら何するかみたいなやつ。僕ならそんな重いのはさっさと回す。もしくは何か面白いことを思い付くかもしれない。

 

僕は母親にほとんど回して、借りは返したぞって言っちゃいそう。

有形のことはほとんどしてくれたけど、それがすなわち愛だという世界観だから、どうも世界線が一致していない。僕が稼ぐようになれば余剰を仕送りしても全然良いけど、世界線はそんなに合致していない。いやここから発展はあるのかもしれない、そんなことは分からない。

 

満月さんが読み終わった本を置いて行って、無知の塔に追加した。

 

変な宗教に入った家族を淡々と語るという小説。

普通の因果で見れば違和感なのだろうが、人の感覚って別に自然法則だけを真理としている訳ではないから、子供が水で救われたというオカルトも人間的な自然ではあると思ってしまう。

 

宗教が担う場はあくまで精神界であって、社会界でも面倒事を起こすのは違うけど、人が普通だと思っている現象も何か法則がある訳ではなく、ある意味オカルト。

 

1例として、電車の乗り降りの時は降りる人が優先だという普通で待っていたら、降りようとしている人と待っている僕を抜き去って乗った人が居た。どういう風に世界が見えているのだろうと、眺めると、他人なんて全く見えてなさそうだった。別に犯罪でもなんでもないしどうでも良いのだが、こういう存在観って自己も危うそう。

 

僕は動機で説明できる世界は嘘だとしているし、なんで死にたがってはいけないのだろうという世界線。頑張って生きる必要なんてない。僕がその人と友達だったら、あえて生きろなんて言わない。僕の世界線に登場した人は楽しくさせるぞいくらいな感じ。

 

一緒に楽しく旅しよう。

この感覚に追いつけた満月さんは当たりを引いたみたい。

 

そういえばもう1つ。

場における人に対する安心感って、お互い来歴を知っている第三者の証人が居ることなのだろうな。場において変なことはしないという期待度薄い安心感がある。僕はこの場的な来歴なんかより自分の感覚で人と接している。過去の事務情報なんかより、この僕とどう接してくれているかの方がアナログ情報として価値がある。

 

場とは別に自分の解像度を信じられるかも証拠がないからある意味オカルトの宗教ちっく。

他人に迷惑をかけない思想はどれだけ発展しても良い。誰かに教えられるような教訓もないし。

 

はい、おしまい。

 

自分で在りえますように。

 

おやすみなさい。