越境

 

 

何かが移動している。面倒事が目に付いて気分がちょっと落ちそうになるのが兆候。この面倒事は素朴ではなく、固定観念のためにそういう因果になる。現実的な関係の他人に僕の素朴な世界観はなるべく開示すべきでない、みたいな。飛び越えればきっともっと面白いのに。統計ではなく経験則だから他の人に適用することはできないのだが。

 

 

さておき。

 

稲刈り終わってなかった。幻覚だったか。ひんやりして刈り入れ時なのか、地主以外の人物も4、5人現れてタオルをほっかむりにしてやる気満々。僕が盛り上がったのは、田んぼの入り口。コンクリート造りの傾斜にぽつんと缶チューハイめいたものが置いてある。飲みながら仕事したって良い。オフィスでは匂うから無理だが、開放的な空間であればきちんと動ける限り問題ない。

 

仕事。情報の取捨選択をミスった。詳細な情報を記述するのは正確にはなるが、読み手からしたら1からと変わらなくて、介した意味が無い。文字数多いと重点がぼやけて読みにくいし(ここは伝達手段ではないから問題ない)。かといって、少なすぎても情報が抽象的過ぎて意味なしになる。苦手意識からフラットになれていなかったと思われる。改善すべきは知識ではなく、克己心。

 

面白かったのが、先生と新人さんのやり取りが聞こえてきたところ。

新人さんが能力以上のことをしようとしたことを嗜める。傷つけないようにやり込めた。抽象的な知識のやり取りで伝達しようとしたときに、それができるのはサイコロの展開図を頭の中で操作できるくらいの想像力がお互いにないと無理だから、できなくてやろうとすると深みにはまるとのこと。僕はできるけどという自己表現も忘れない。

 

新人さんはやる気はあると思うのだが、空回りするようなところがあり、うまくコントロールしていて凄い。

 

僕もサイコロを頭の中で展開してみた。それぞれの対面を合計すると7になるように対応していたと思ったが、別に相似でなくても何の目が出るかは独立して6分の1だから、1の反対側に2があっても良さそうな。数字を扱う人は対称性を重視するからサイコロはそういう並びになっているのかなと想像する。

 

あと、思考コストパについて考えた。

 

想像は思考に属するはずだが、巷に言われる思考ってもっと論理的な前提(知識)から結論を導くみたいなことになっている。カントさんが言うところの分析的判断だっけ。分析では要素の外には行けない。想像は総合的判断であって、もともと前提としているものから飛びさせる。この飛び出せるということはなんなのかの考察から、アプリオリ(経験の前)にある認識を導いたという暫定的な解釈。

 

 

そうして、ご飯のコスパ

シチューを作ったという森見登美彦さんちっくな美味しい文体の記事を食べて、今夜は何を作ろうかとお弁当を食べながら考えた。青椒肉絲が浮かんだが、タケノコを調達しないといけないし、オイスターソースが冷蔵庫にあるか不安だったため却下。鶏肉が食べたい気分で、外気もひんやりしてきたし煮物で良いかとなる。スーパーを巡回していたらおつとめ品にしいたけ100円があって、即買い。

 

ブロッコリーの芯で緑みも醸し、美味しい煮物ができあがった。レシピは省略。

 

僕が日記を書いている日数は残ってないものを含めて10年くらいになる(たぶん)。それにほとんど対応した日数分の夜ご飯を作っていて、どちらも嫌々やっている訳ではないから、それなりの上達がある。文章だって料理だってもっとも味見ができるのは自分だし。

 

もちろんどちらも時間は使う。料理に絞る。買えば完成品が食べられるし、下世話な話、パートナーが料理好きだったら心配不要になる。ただ、コスパってもともとコスト(費用)がかかるということで、これが原価だけではないのは確か。おそらく労力も費用に上乗せされる。だから飲食店のご飯が割高になるのは当たり前。

 

僕が料る(「植物図鑑」という有川浩さんの小説に出てきたフレーズ)ことに労力を感じているかというと、ほとんど0にカウントして良いくらいになっている。むしろ並ぶとか待つとかの方が労力。

 

味とか食材が自由にできる方が楽しい。自分の体がうまいことできるかというのも試行だし。感覚で分量を計っているから、下手すれば失敗作になるという緊張感、昔はあったが今はもうあんまり外れないから気にしていない。

 

この料理へのコスト観って一種の信仰の世界。家事労働、労働は苦労して働くことで価値が生まれる、すなわち価値を生産するためには苦労が要る、苦労は貨幣で省略できる、みたいな。

 

母親がしんどそうに料理を作っている姿を見て育ったから、料理ってしんどいんだろうなと思っていたし、自炊界に参戦するときはなかなか大変だった。まずは食材を準備するだけで味が決まる補助調味料から入って、続かないから気が向いたときだけ作って云々。まぁ凄く貧乏な時期があって、自分でやりくりした方が安いという時代を経ているから、気ままに継続しているとも若干違う。あの頃は第3のビールとか安ウイスキーしか飲めなかった。

 

しんどそうに作っている母親は養護教諭だったが、特に栄養学のプロではないし、どんな家庭の料理人もここには長けていない。子供が3人居ても自分の料理しか作れないのはなんだか変な話だと思うのだが、僕が知らないところでやっていたのかも。

 

僕が主夫なら、美味しく食べさせつつ個別の栄養状態も気にしつつ作りそう。

大人は体が完成しているから、食生活が即時的には響くことはなく、緩慢に影響するだけであって、好きな物を食べる自由が保障されている。肉禁止みたいな宗教もないし。

 

この前観に行った「GOOD WAR」という演劇の台詞で、「何人だ」と問う台詞がある。この何にはおそらく国名が入るのだろうと思うのだが、日常の料理ですら遊べる僕は変人だって答える。特に倣う必要もない。

 

 

やれやれ。

 

何年後かに趣味として法律学の最高峰の試験をふらっと受けにいきそうな予感。

知識ではなく認識で勝負していたら良かった。まぁきっと、社会のインフラとしての仕事はしないのだろうが。

 

インターネットが3Dになる次世代の前に、人間ってほんとに3Dとして世界を認識しているのだろうかという命題。

 

あんまり詳しくないから想像だけど、Dって軸というか変数と思われる。縦横高さが一般的な3Dだけど、これって視覚が捉えている世界だという意味では変数は1つ。空間に過ごしているという現実感はあくまで視覚としてのまなざしで生きているという感じだが、別に人間がそこで生きる必要もない、というか、そもそもはみ出してないか。

 

ほんとにそんな空間の世界が世界の全てと捉えているのであれば、全然自由に生きていない。

 

現象学で捉えなおした3Dは、自分の世界という1つの変数、対象(相手)の世界も1つ、その間にある関係が1つ。現実感はあくまで1つでしかない。

 

全然誰にも読めないところに至っている自覚はある。

ここを飛び越えるのもテーマの1つだから無問題。人と人は突き詰めれば同類にすらなりえない固でしかないところが楽しい。

 

僕が生き延びていられるのは単なる僥倖であって特に意味はないし、ただ、生きているのであれば何か還元しないとはなる。

 

本の話も書きたかったのだが、別に固有名詞を書かなくも本は文句を言わないし、そのうち書けばいい。

 

ということでおしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。