遊びと真面目

 

 

雨のなか出勤。工事が終わった新鮮なアスファルトは水をよく弾く模様。地面にも雨粒。

 

お昼はからっと暑い。一昨日の涼しさは身を潜めたが、暑さの中に夏の終わりを醸す。暦の経験則でもなく、おそらく湿度の感覚だと思われる。涼しくなったら心地良いが、その先には四季の中でもっとも殺傷能力を持った冬がやってくる。仕事の体感的にもこの時期ですら全国に多数拡がっているのに、どうなることやら。別に特に悲観している訳でもなく、健康より免疫を気にした方が良いだろうなというだけ。

 

 

免疫を気にするというのもよくわからない話だが、精神的な心身から体の自然の作用を阻害しないとか、高めるとかそんな感じ。

 

 

仕事の話は特にない。何かざわざわしていた気もするが、夜ご飯をどうするかと夢想しながらレシピを眺めていて、「煮込みハンバーグ」の気分になったら、ざわざわは容易くそわそわとかうきうきに変わる。気分なんてそんなもんだ。

 

なんてことを言ったら自分はこんなに気分が沈んでいるのにと怒られそうな気もするが、それとこれは別だし、自分の気分に同調してくれる人が良いってことはないような。同調せずに承認してくれる人の方がブレないし、想像だが、こういうのがカウンセリングの効能だと思う。誰かとの関係をどうこうする前に、自分の中の森に分け入っていく、みたいな。

 

「最終講義」の河合さんの言を眺めていると、人が自分を掘り下げることにどうこうではなく同行する人の方が専門家としても優秀なのではという感じある。知識があるからあれこれ言いたくなることを抑えて、クライアントの遊びに付き合う。

 

真面目になり過ぎるから精神がしんどくなるのではという経験則交じりの想像でしかないが。

 

しかしながら、僕は最近、めっきりはっちゃけ過ぎかもしれない。

文章大丈夫かというのもあるし、公私共々遊びがち。読者さんも良く着いて来られるものだ。まだまだこれから加速していくような感じですけども。

 

加速というより、運動というか限界突破みたいな。

 

哲学的な思索も、何か特定の原典を踏まえてない。梯子を登ったらその梯子を捨て去るべきという言が刑法各論の本のはしがきであったが、哲学的概念を認識したところで、巨人の肩に乗っかっているだけで、自分が考えているとは言えない。

 

何か、読書が思索と同列にされる風潮もあるけども、学習は思考の基礎であっても思考そのものではない。ショーペンハウエルさんが読書論で、読書は他人に考えてもらっているようなものだと書いているらしい。そのうち読まねば。

 

個人的にはなんのこっちゃと思っている。院時代膨大なテキストを読んだが、人の思考の道筋を辿っているだけで、何も思考できないし、余白が全くなかった。正解の思考がテキストの中にあるのだから、自分でそれを疑問に思う必要がない。

 

今の無知の塔は、僕も含めて皆で一緒に考えようかという和気あいあい。

文豪やら哲学者やら科学者やらおこがましいこと極まりないが、それができるのが読書の醍醐味。趣味みたいな片手間な感じでは読めない。

 

中の世界のはっちゃけはぶっちゃけ外に出ないからどれだけ遊んでいても見えない。

いや、この文章がそれではあるが。

 

外のはっちゃけは証拠が提出できる。

という感じで、美味しくできた煮込みハンバーグ。

 

かつての僕であれば、ハンバーグを日常生活のお弁当のおかずにすることはできなかった。まぁここでいうかつては、自炊始めたころに名前が付いた料理に挑戦していた無謀の時系列。タネが飛び散るし、全然上手く丸くならない。

 

無謀な屍を積み重ねて今日作ったら、きちんと日常時間内に収まるし、丸いままで成形された。もはや日常の中のレシピとしても良い。タネも飛び散らなかったし。料理と文章が似ているという記事を見かけた気がしたが、こんなのはなんでも言えるからどうでも良い。

 

外へのはっちゃけは、体の経験則で、未來の見込みがある程度たつという意味。

要は、自分が外の世界で何をしてきたのかという行動と結果を認識してフィードバックしていくという、孤独な試行。承認してくれる対象は自分以外に無いし、対価なしで遊べるかという話。ここでは他者からの承認はノイズでもある。ある程度認められれば、このままで良いのだろうなというストップ。

 

このストップって、どうあっても安心とか休息にはならないような気がする。

ドクターストップ的な意味合いはもしかしたらあるか。ただ、人を止めるのって、自分の領域に留まって欲しいという動機以外があるとすれば、それはほんとの愛かもしれない。

 

まぁ、愛もプリズムみたいな言葉だが。

 

 

そういえば、料理と言えば、すげぇむかむかした記録がある。

僕の歴史上、最上に下賤な人だったなという人物(男)と働いていたときの話。

 

当時の料理は割と趣味の領域で、色々作ったり何故か職場の人達にお裾分けをするような感じだった。さつまいもの使い道をスイートポテトにして、パートの主婦層に好評だったとか。良く分からない男が作った料理を食べるってどういうことだと思ったが、まぁそこは知らない。

 

日常料理も唐揚げとか酢豚とか多めに作ってお裾分けしてみるみたいなことをやっていた。やっていたというか、リクエストされたから作ったくらい。もちろん金銭の授受はない。

 

この辺りで、もっとも下賤な男が、硯さんのパートナーになる人は、料理について駄目出しされてプレッシャーかかって大変そうって決めつけてくる。普段の仕事振りのへらへらも目に付くが、それ以上にむかついた。何を勝手に僕のことを既定してんねんって。

 

ただ、こういう人に怒って訂正しようとしたとしても無駄にエネルギーが遣われるだけで意味が無い。おそらくこの男も、経験則上で、料理スキルに自負を持った人と関わってきて、その人が自分は料理できるというマウントされたという歴史があるのだろうな(元嫁だったのかもしれない)。

 

たしかに、そういうのはある。

僕の近場の歴史では、母親の料理がたいしたことないって家政大学を卒業した姉がマウント取っていたし、料理(ご飯)って肉体を形成するものであるし、精神を形成するものであるからややこしい。

 

自分で作っていればその時間と思考の苦労は体感できるのに、なぜ他人にマウントを取ることになるかがワカラナイ。僕のはもはや趣味でも生活上の義務でもないただの遊びの領域だから、不手際で美味しくなかったとしてもそれでむかむかなぞ在りえない。お腹壊しそうな出来栄えだったら気持ちだけをいただくが。

 

経験則に情報と体感を混同しているから情報的な部分にはなんとでも言えるのかな。

体感則でマウントを取れるのはまた別の矜持というかストレスかもしれない。

 

こういう世界観がよく分からないから、僕が僕ではっちゃけると、もう良いですって人が離れていくという不安感は常常ある。世界が重ならなくなってしまう。文章も、おそらく自分の定義ではなく共通項としての語用でしか扱えなくという節。

 

まぁ、もはや僕は人生劇場で遊び人になるという矜持だから、どちらの文脈でも気にしていない。

 

今日はここまで良いか。

 

また明日。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。