玉
財布に穴が空いたらしく小銭が逃げて行った。午前中は水無しでのお仕事。ひもじさにテンションが上がる。通しではきっときついが、午前中の仕事は3時間だから何の問題もない。本当の問題はこれで気分が上がるように人格に穴が空いていること。
こんな非人格者が他人を非難できようか。とか言いつつ、昼にコンビニに行ったときに店員さんが「袋要りますか?」と聞いたのに、ワイヤレスイヤホンを両耳に差していたためにえ? となっていた人が居て、この人大丈夫かと思ったのは公然。
空白には放っておけば何かが埋まる。
稲刈りは全部終わっていた。晴天也。ぽかぽかし過ぎたのか、完全なお昼時とはいえ休憩の公園が満員だった。こじんまりしていても解放感を求める人が多いのだろうか。こちとら霧雨の日も風の日も公園派だから、ちょっと窮屈。都市計画でもっと公園スポット増やそうか。
仕事。先生が在宅研修で少しばかりの緊張感が漂っていた。僕も認識が誤っていた部分がありちょっと手こずった。知識ではなく認識だからいくらでも改められるのだが、なかなか難しい。自分に誤解が無いはずが無いという人生劇場観だから、人を巻き込まない失敗については特にダメージが無い。
なんだかんだすんなり終わり、買い出し。
本日は生姜焼きの気分だったから、豚肉と下味用の料理酒を買った。料理酒は常備しているはずだが飲んでないのに定期的に補充している。もっと多いのを買えば良いのだが、それほど使わないというか、効用が未だにあまり分かっていない。修行不足。
チューブ生姜も切れたから買わなきゃと思っていたのだが、料理酒を買うためにレジに並んでいる行列をラッセルすることに注意が向いて抜けていた。とはいえ、満月さんが料理を作った時に置いていった現物の生姜があることが意識の片隅にあったから、使うために抜かしたのかもしれない。
昨日の白和えの胡麻は磨れなかったが、本日の生姜はすりおろした。玉ねぎは無いから長ネギで。やっぱり手間かけたら美味しい。豚肉の量が少なくて明日のお弁当とシャアすると少量だが、夜にいっぱい食べたい人でもないから問題ない。明日の僕よ、存分に味わえ。
お金はなくとも書庫がある。
生来物欲はあまり無い。お金があるときの優先順位では本が最上位にあるくらい。積ん読を発掘するのも楽しそうだが、本日は資格試験の為に買っていた分厚い法律書2冊を無知の塔に追加した。物理的な重量としてそろそろ限界。
刑法と民法(債権総論)。知識を仕入れる為に読むものではなかった。今読んだ方が遥かに楽しい。法律ルールの本質は、未來を前提としている。人間が未来を認識できるようになったから、未來に争いやら事件が無くなりますようにという願いを込めた祈りのようなもの。
刑法が特に遡った犯罪を創出するのをタブーとするのも、未來から咎められても、行為の今の時にそれが認識できない以上、行為が違法だから止めることはできないという大前提がある。
民法の権利の話も、基本的には過去の歴史を前提とした、未來に向けたもの。
過去の確証によって、今後の自分が社会に存在できるという。
Kindle読み放題の本のメタバースの話で、大企業の代表者だった著者が、ここに投資しようとしたけど、法人制度における合意形成で挫折したらしい。法律とか会計の専門家が、これをどう運用していくかが分からなくてためらったって。
法律書ももう一周。
背景はあんまり書いていないというか、背景気にしていては受からない、そんなことより穏当な解答をという感じだったから全然読めていなかった。
未來の行きつく先は人生劇場からの退場だから、人は誰しも死を哲学しなきゃならない。
それを考えないための遊びという意味での気晴らしとして人生劇場があるとも言える。
文学は基本的に過去に向いているイメージ。
文学を突き詰めたとしても未来にもっと良い文学が生まれるみたいなことではなさそうだし。いや、浅学なだけかもしれない。世界の解明って、未來の見通しをより広げるということな気がするが。過去が良くなかったという学は学門としてなりたっていない。
自己カウンセリングというか自己分析だって、今後により生きやすくなるようにあるべき。
存在ってなんだろうなという問いがどんどん深くなる。
もともとの存在は無かった。世界が在るだけ。そうやって世界を採取していくとひょんと物心が生まれる。この自我を自分として世界に生きていく訳だが、この素朴な自我を更新する時機はいくらでもある。他人は別に僕の物体をもって僕の存在としてないし。あくまでその人が生きている階層的な世界でしか見えてない。もっと見えるし、もっと体感できるはず。
VR(仮想現実)と3DGだっけ、インターネット世界が3Dになるというという世界観がやってくるらしい。現実としての臨場感はレスポンスと解像度とのことだが、ほんとにこれが現実になるとしたら、そうとうに人は現実感が鈍っているような感じ。
通話で人と話している感じがあるのも、ここから言えば仮想現だし。
自然の声ではない何かよく分からないブラックボックスを通した声。リアルタイム感はあるのか。
自然の声は自分の骨格に反響した外から聞こえてくるものだし、何がなんだか分からなくなってくる。
外に向かう存在を自分とする限り、自分の存在は認識できない。
内にある規範が自分だというのもあやうい。だって、人は非一貫性の存在だし。
次世代の映画は参加型になって、誰かのキャラクターとして現実的に鑑賞できるらしい。
楽しいそうだとは思いつつ、僕は小説をそういう風に読んでいるから、あんまり魅力を感じないような感じ。コンテンツとして自分を移動させなきゃいけないような自分の人生劇場の楽しみ方をしてないし。
まぁ、旧来の関係性が払拭されるのは良いこと。
既定された関係性がなく継続した関係ができるってちょっと想像できないけど、それくらい自分に成れるような人が増えたら、物理的世界もひっくり返るかもしれない。
おしまい。
おやすみなさい。
良い夢のついでに明日も楽しめますように。