肯定する必要がない

 

 

そろそろ甚平パジャマでは肌寒くなってきた。パジャマ感満載のもう1着の出番か。

 

 

夢の話から。

 

前半は大蛇が2匹出てくる夢。森の中で勝手にやってくれ形式の音楽イベントを主催しているらしい。現実では飲み会すら1回しか主催したことはない。時間調整大変だった。僕が主催しなかったのは、特にその人達の会合を欲していなかったからかもしれない。したいことはできるはず。ともあれ、山道で案内役している。主催なのに案内役もする。道中でいきなりメルヘンになり、普通の蛇のフォルムで両手を拡げたくらいの大きさの蛇の番が現れる。色合いを見る限り、ニシキヘビとヤマカガシのカップル。

 

知らない人をニシキヘビの方が丸呑みして、現実的に冷静にパニックになる。こういう時呼ぶべきは救急車なのかパトカーなのか。警察が来たところで大蛇には対抗できないよなぁとか思考しつつ、何事もなかったようににゅるにゅる通り過ぎて行く番に人を助けるために殺さなきゃというところより、何か愛着めいたものがあった。ヤマカガシの不気味な色合いと質感が生々しい。

 

いったいどんな夢だ。

 

後半は相変わらず追われる夢。追われる場所で最頻値な実家界隈。景色は好きなのだが、なんだか、家族愛みたいなのに追われている気がする。家族でないと愛を投げないのか、投げる必要がないのか、みたいな。

 

現(うつつ)に目覚め、さぁお仕事。

新人さんの更に新人さん達は優秀だと思う。凄く先生に質問している。ただ、いまの疑問の解消に対応する先生の時間コストを鑑みると、その質問によって先生の未来の時間が減る訳ではなさそうだから、あくまで自己満足の領域だと思ってしまう。先生は学者脳だが、ここは別に学校ではないから、学習意欲が未来の効能に繋がらないと意味が無いし、むしろ質問しないもう1人の人の方が着々と積んでいる優秀みを感じる。

 

更に更に新人さんも居て、この人達も優秀。語彙を聞いていてもこういう仕事したことあるのだろうなぁと。男性の方は、良い声している。ここで良い声というのは、相手に聞き取られやすい声という意味。僕の声はあまり響かないからきっと聞きにくい。今は腹筋というか横隔膜を稼働させてなんとかなっている。

 

優秀だというのは、僕の新人の時と比較しているだけであって、特に劣等感はない。もちろん優越感も。最古参の先輩は上司の仕事を減らそうというスタンスだから僕と近い。どうしても知識が抜け落ちることがあるからそこは仕方ない。凄いを越えて仕事上の好意がある。適度に権限外の領域で甘えさせて貰っている。古参の人はなんというか立ち回りで仕事をしている。もちろん経験相応の知識もあるが、あくまで自分が仕事をしているという世界観。同期もそっちの系譜か。

 

結局のところ、首脳陣の負荷を減らしつつ変なことは起こさないというのが最上の駒になる。バランス感覚の話だし、聞くことによって自責の答えではなくなるという安心が大事な人は多い。僕はこの辺り、ぎりぎりの危うさでやっている。過去のアーカイブを検索したり推論したりで、知識外のこともやりくりしているから、そのうち何かあるのでないかという危惧はなくもない。

 

 

僕の理性は狂気らしい(満月さん談)。わかりみ。

もっと別のところを言っているはずだが、この話はもう少し後。

 

仕事中に、ふと思い至る。調子がなにか悪そうな感覚の答え。

虚像と実像を一致させるときがやってきたということ。

 

僕が受けているとされている資格試験の合格発表があったのだった。ずっと受けてきていた試験で、今年はもう良いかとなったとなって、そもそも受けに行かなかったのだが、職場にも母親とかにも受けていることは知られているから、惰性として今年も受けて発表待ちを暫定としていた。

 

本来こんなことする必要はないが、僕の固定観念が阻害していた。これも今となってはおかしな話だが、相手の中に存在している僕の像をなるべく壊さない。壊すならば、やんわり壊すみたいな感じ。

 

そこまで動向を心配するほど他人を気にしている人なんて居ないのに、なんともかんともな話。

 

嘘を付けば場は繕えるけど、嘘で構築された人物像は実像と離れていく。村上さんの「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」の影の話みたいな。

 

現実的な話として、僕は繕わないが合わせるから、素朴な自分と人から見える自分(虚像)では虚像の方で生きていた。こうあるべきとかの規範的自分。これは別に嘘ではない。社会的な振る舞いとしてはそれができている訳だし。

 

嘘ってなんだろう。

過程に繕いがあったとしても結果としての像が一致しているのであればきっと特に問題ない。ただ、像が離れていくような嘘は、エネルギーが分離する。メタバースはどれも実像になりうるのか。

 

もう嘘付かなくて良いのかとなった虚実の一致のエネルギーの充填を調子が悪いように感覚されたという認識。ふとした自分の移動って世界の見通しが広くなることで感覚すると思うのだが、あんまり共感される気がしない。

 

あえて僕の素朴の世界を公的(家族やら仕事やら)に開示することに意味はないと思っていたけど、一致させた方が世界衛生上は良いのかと思った次第。それによって相手の僕に対する目論見が外れたとしても、知ったことではないというか。

 

 

そうして、仕事が終わってからの遊び。

違法ではないが社会的に奨励されないことを2枚重ねしてみる。倣う人なんて居ないと思うが、なんとなく具体的な内容は自重。心配する人も出てくるかもしれない(無い)。

 

僕は日本人で悠々な国民だが、割と物理的にもやばい淵の貧乏生活の苦労はしたことがあるから、ご心配なく。余裕があるから動くとか遊ぶではなく、ぎりぎりの余裕でも遊べる。

 

最後というか、本題というか。

ここまで前置きをしているのは、僕は答えだけ求める人に対して何かを示唆できるような人物ではないし、場違いなところに書いているのを自覚しているから。

 

(中庸についての文章で、バランスを取ることだという趣旨の記事に100個くらいのスキが付いており、バランスを取るだけだったら中間で良いしとか想う場違い。中庸の本質は止揚と同じようにその先の発展にあるような。)

 

自己肯定感なんてくそったれみたいな記事がおすすめに流れてきて同感した。書いた人はカウンセラーさんらしい。言葉に依拠した精神世界をいっぱい眺めてきてこの答えが出てきたとういう想像。

 

言葉を媒体として存在を表現しないようにしたから、言葉が持っている世界観は俯瞰的になるのだが、言葉としてみたとき。

 

言葉上の自己肯定感が自分にあるのかというと、この地平で眺めたら否定の方が強い。だから独り言として〇にたいというフレーズがぼちぼち出てくる。かといって希死念慮がほんとうにあるのかというと、もはや霧散してしまった。

 

 

言語的に捉えたとき、肯定否定ってあくまで条件が前提になっている。

自分を条件としないと、肯定も否定も現れない。自分のスキなところとか、自分がこうしているから(例えば筋トレ)自分が好きであるみたいな。

 

こんな風にしか自分を感知できないのであれば、そりゃあ皆自分の価値を高めるためにあくせくするわな。条件って比較だし、こんなことしていたら過去の自分とも未来の自分とも戦争しながら生きないといけない。

 

例えば陽だまりに居る時の心地良さって、天気に対して条件付けしているだろうか。お布団でも良い。比べる対象はなくないか。

 

自分で在って良いということは、何か他人から見えるオプションではなく、自分の存在を赦すだけで良い。ただ、なんでもない自分しか居ない地動説になって自責に耐えられるかどうか器によりそう。自分であるというのは、心地よいことばかりではなく、決めたことを他責にできないという自律で生きることも含まれる。

 

はい、明日も移動してきます。

 

おやすみ。

 

良い夢を。