可動

 

 

なんだか変な感じ。

また1つ檻を抜けたか?

 

 

そろそろ転職サイトを眺めねばという気分。特にアピールポイントもない。院卒、運転免許(ペーパー)、行政書士では弱い。外から見えるところに蓄積が反映していないのは困り所(全然困っていない)。

 

外から見えるところと言えば、暇に任せて遅番の古参の先輩と雑談。これから帰ってご飯を作るのかと聞かれる。副菜は多めに作って云々と返す。凄いなと言われる。個人的にこの「凄い」って警戒すべき言葉と思っている。凄いと思いながらやってないし、ただの動きなのに、高評価されるとブレーキになりうる天邪鬼。もう他人の評価は良い意味だとしても気にしないことにして払拭したし、古参の先輩に他意はなさげだから平気。

 

きっと毎日弁当作ってまめだし、仕事振り含めて真面目くさった緻密な人格だと見られている。主観的にはかなりちゃらんぽらんで、仕事中に変なことを思索しているし、人の仕事も何の対価にもならないのに解こうとしているし、体は動いていないが中で落ち着きなくちょろちょろ動くような子供のような感じ。満月さんの助手席では実際にきょろきょろしている。だからオレンジの彼岸花が見つかる。

 

全然真面目ではないのに真面目に見えてしまうのは、人が外観でしか人を捉えられないから致し方ない。たぶんこうやって夜な夜な酒を飲みながら煙草を吸いながら文章を書くような人格とは想像もされない。1度でも実例を見せれば実像が虚像に勝つが、実例を見る機会はないし。

 

この文章を読んでいる人は、僕が向上心を満たすために本を読み続けている人格と捉えるかもしれないが、本(言葉)は美味しいだけであって満腹にはならないし、自分に益があるからという動機をもって読まなくていいという立ち位置。副次効果があるとしても、これはあくまで間接であって、直接の目的にはならない。

 

目的通りに中身が採取できるって相当の達人だし、僕はそこまで至ってないし、情報として読むには情報量が多すぎる。

 

景色をきょろきょろして収集先を決めるという散歩みたいなもの。

本日はインボイス制度の資料を読んでいた。免税業者が大変になるとこの前テレビで見て気になっていたら、仕事の資料の中にあった。軽減税率と通常の税率が混在して計算が複雑になったから、それを明確にする負担を納税業者に投げる精度という認識で合っているだろうか。免税業者と取引すると仕入控除がなくなって税負担が増えるから、課税業者に乗り換える可能性があるとかなんとか。

 

税制って必然性がどうもよく分からない。

国家の構成員で居ることに対する手数料みたいなものなのかとは思わなくもないが、別に国家って自分で参加した訳ではなく、生まれたときにどの国籍か決まっているのが基本だし、説明しなくても良いというのがなんともお役所感。いや、調べれば資料はいくらでもあるのだろうが、社会契約説はどこ行った、みたいな。契約って合意で成り立つ法律関係だが、合意の前提には内容の認識が必須なような。

 

嫌なら離脱したら良いだけというのも分かる。

僕は税制の仕組みが気になるだけで、特に不満があるということでもない(消費税気にして買い物していない)が、フィクション感が積み重なってないかとだけ。

 

あと気になってきたのが複式簿記会計学の学生が読むような本はお風呂読書に入っているのだが、仕訳とかの細かい成り立ちがどうなっているのか。簿記の資格試験には特に興味はなく、仕訳の対象性が気になるところ。結果的に今の仕事にも副次的に役立つことにはなるかもしれないが、そこはあまり関係ない。

 

複式簿記のシステムって、資本主義の発展と共に形成されたものというのは何処かで読んだ。投資者とか取引先に資金の動きを明確に説明することによって未来への信用を得るみたいな話。国家という法人の会計ってどう開示されているのだろう。構成員は投資者も取引先でもないから不透明になっているのだろうか。地方公共団体だったら、会計上の行為の違法不当を構成員が訴えることはできたはず(政教分離判例はだいたい地方公共団体が宗教団体に公費から出費するのは違法だという訴えだったような)だが、規模が大きすぎて無理なのかな。

 

(たぶん全貌を把握できている人は公務員の中にも居ないと思う)

 

 

さておきというかやれやれというか。

 

僕はスピリチュアルとかオカルトはあんまり信じていない。だって、共通項にできることがおかしい領域であって類型で括れないし。ただ、今までの世界が魂の牢獄であるという説はなんとなく分からなくもない。マルクスさんはずっと昔に資本主義の考察でそんなことを書いている模様だし。人間でもないし動物ですらなくなったとか。弱い人間を機械にする。

 

僕にあった檻はこういう当たり前にしておかないといけないという強制だったのかも。別に柵に囚われる必要がない。もちろんこれによって自分だけが良かったら良いとはならないのが素朴。

 

そういえば、流れてきた記事で「善く在る」ことを指針としている人の話があった。

僕はとんと善いが分からない。道徳も。善い行いってなんだか良さそうだが、個人的は網が粗すぎる。致命的なのは、善にはもともと悪が包含されているし、なんというか世界が平面だということ。

 

例えば善いビジネスと標榜したとしても、対価を得ることは変わらないのだから、あくまで自己満足の研鑽の領域。まぁ研鑽自体は大事だが、別に善くなくても研鑽はできる。

 

網が粗いというのは、例えば、僕が困っている人を助けることを善行だとしてこの前困っていたマダムに楽天ペイの読みとり場所を教えたから、次に困っている本日のビジネスマンにもおせっかいをしようとしたとき、よく見ると場所は分かっているが、上手く読み取らせられなかっただけだし、プライドが高そうだから親切心が逆上を買うことになりかねない。だから後者は回避した。最終的にできていたから問題なかった。

 

善ってこの水準のおせっかいだと思っている。

善く在るより自分で在れば良い。もちろん自分で在ることは社会的な存在だから、最低限刑罰が科されるような行為はしないくらいは大事だが、不倫は民事の賠償責任だからしたけりゃすれば良い。僕は浮気をしたことがないのだが、これも別に善だからではなく、お風呂読書の三島由紀夫さんだっかな、の「秘密は人を多忙にする」というのが煩わしいし、1人居れば十分だし。人に飽きるって自分に飽きてないと無理な所業。

 

僕は世界に退屈していた時代があったが、もう大丈夫。

 

 

時間の檻からも脱却しているらしく、全く思い入れのない中学時代の筆箱とかが想起される。何か自分に意味があったかどうかは無関係な物事が自分を形成している。

 

たぶん記憶って、時間の概念を前提としている。時間として推移した後でも自分の中で再現できるかという意味合い。

 

ここで想ったのが、人って会話を動画として残し続ける容量はないし、そぎ落としたものが自分として残る。セルフウォー。他人として何が残るのか。

 

仕事の話。

やたらと上司に質問する人が勤勉なのか問題。

 

ちゃんと聞くことはある意味美徳で、なんも分からないのに自己判断するよりはマシ。

ただ、これって簡単に答えが出てくるマシーンみたいに上司を認識している所作であって、残る物は微々たるものだと思った。おそらく瞬間的に疑問に思ったことに答えが返ってきたことが満足であって、満足が目的だから知識としての道具にならない。

 

ただ、僕の同期は悩み時間もあるのだがこれはポーズである意味仕事のサボタージュではないかという思う節もある。結局聞くんかいみたいな。バランスが難しい。

 

疑問が浮かんだら解答をすぐさま欲求する人は、信心深い人なのかもしれない。

確証が曖昧なのが現実なのに、何かしら拠り所を得ないと済ませないのはそういうこと。

 

僕はこの曖昧性が楽しい。

依拠要らず。

 

とりあえずここまで。

 

おやすみなさい。

 

よい夢を