存在

 

 

 

急いではないが、帰宅後30分でお風呂に入っていた。すぐに洗濯機を回して夜ご飯兼お弁当を作って、お風呂に入るときにもまだ回っていた。一体何を時短したのか。毎日するということは、それが自然と早くなるということも含まれそう。

 

省エネかつ時短派だが、自転車通勤にする気がない模様。歩くことが好きというか、自分の体を動かす時間を日常に組み込んだ方が色々回るというバランス感覚。自転車はなんだかんだ危険だし、行きは下り坂で省エネできても帰りに使うエネルギーは徒歩より遥かにかかるし。電動で良いのではという向きもあるが、自転車を良く盗られる人生だから、持たない主義で良い。

 

さておき。

 

そういえば、昨日の日記に漏れていた花の名。

知識として知りたいというよりは、目に留まった花にどういう名前が付いているかというのが気になるから、文明の利器を活用している節。誰かに教えたいでもない。幸いにも同じような花が気になる人が居るから情報共有できるが。

 

この季節、黄色くてぼわぼわした花が景色を彩っているのは、少し目線が広い人には分かると思う。なんだか花粉が凄そうな花。セイタカアワダチソウというらしい。セイタカアワダチソウという単語は知っていたが、物理的な像と結びついていなかった。たしかに名前の通り泡立っている。個人的に花の名前で一致しているのか定かでないのはオオイヌノフグリ。色とか形とか好きだが、全然オオイヌでもフグリでもないような。語源を調べることはお勧めしない。

 

どうでも良いが、セイタカアワダチソウの花粉症というものがあるとすれば、その人はこの季節、とても大変だ。

 

像を言葉で固着させるのが固有名詞だが、実は概念としての抽象名詞も中身がどうというより名前として固着化させているような。まぁどんな言葉も完全なオリジナルはなく、日常言語を前提としていて、これの根を突き詰めていくことに特に意味はない。問題は言葉でもない。

 

仕事も役割を固着化する場所。別に固着が悪いとかではなく、動きが他律的になることが仕事であって、そりゃあしんどいわなというだけ。義務で可能性を発揮できるように人間はデザインされていないという独り言が起こった。人間の可能性を閉じ込めるための制度なような。

 

やれやれ。

 

本日は劇評をここで書いておこうかと思う次第。

もともとは昼間に1つの独立した文章として書こうと思っていたのだが、特に依頼があった訳でもないし、自発的な昼生活は基本的に文章ではないところで遊んでいるから、たぶん機会がない。

 

もう一ヵ月くらいは経っているが、僕の頭に残っている像には時間はあまり関係ない。

ぼやかせる為にお酒で泡立てている節もなくもない。まぁお酒呑んだところで残るものは残るのだが。

 

という感じで「GOOD WAR」。

3回くらい同じテーマで観てきたが、今回のはとても分かり易かった。表現が収束しているというか。

 

おそらく厳密な意味の演劇には当てはまらない。登場人物が俳優に当てこまれていて物語が展開して終わるみたいな話ではないし。もっと広い意味での人生劇場なのかというと是になるが。

 

体育館が会場で、舞台の前に客席がある。で、開演の数分前に客席に演者が座って開演を待つという、どちらが観られる側なのかが動揺する。

 

戦争というか争いがテーマの中で、女の子の声が、自分の過去の時系列を独白するところから始まる。線が引かれている床から落ちないように。なんであの縫いぐるみを大事にしていたのだろうとかなんだか。今の自分って歴史から淘汰された後に残った像というイメージが想起され、たしかに自分として残るかどうかは戦争ちっく。抜け落ちた記憶は自分ではないのだろうか。

 

人が増えてきて、皆やたら動くは叫ぶ。

 

個人的には1,2,3で忘れるけど、3,2、1でもう覚えたというフレーズがとても好き。時間が逆流している。これが人間の醍醐味。

 

で、この演劇を観劇した余白で、考えていたのは、人の存在とは何処に置かれるものなのかというところ。

 

これは概念というより、現実感の話。

他人の存在の実感でもっとも現実感があるのは声なのではとなる。聴覚の効果が面白くて、スピーカが色んなところに置かれていて、演者もその声に顔が向くという演出。

 

声は記録できない「いま」の最中にしか存在しないが、実感としての人。

録音された声も、記録された文章も、ここまでの実感には至れない。

 

人の現実感でもっとも優位なのはきっと視覚がだが、景色に見える人が実存として捉えられているはずがない。そうだとしたら、世界はもっと和平になっておる。

 

ワイヤレスイヤホンをしている人って、何処に生きているのだろうな。

ある意味メタバース世界かもしれない。ちゃんと他人は自分と同列に捉えられているのか。

 

大げさな動きがないと人として捉えらないから演劇でやたらと動いている説。

現代のシェイクスピアかいな。

 

ともあれ。

 

僕はというと、人は人であって、僕から見える像がその人全体とは想わないし、あんまり人に対して感情が起こらない。だいぶ裏切られてきたが、人一般がそうであると思い込めるほど賢くないし。

 

僕のみてくれ(文章体も含め)は割と真面目で清潔感があって煙草も吸わない像として人から捉えられる節があってギャップに困っていた時系列があったのだが、結局のところ、そうやって都合良く捉えらた像に自分を依拠する必要がなかった。

 

僕の文章体も、それがないと自分に暖が取れないという動機で書いている訳でもないし、単なるエクササイズみたいなもの。

 

言葉って表現物だが、道具でしかない。

道具に扱われるようにできてないのが不遇であり厚遇という人格。

 

はい、オーバーで満月さんを寝不足にさせてしまう。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。