重み(特に膝)

 

 

ほうれん草の胡麻和えをリクエストされた。茹で過ぎ(洗い物していた)だが、味付けは高評価。お米の炊き具合も良かったらしい。

 

 

そろそろお昼も寒くなってきた。これくらいだと動きやすくて良い。温水プールより水温が低い方が泳げるのと同じ。飛び石を渡っていると、向こう岸から男児。すれ違い様、「先を急がないと」。勇ましい。もっと冒険してくれ。

 

ベンチでお弁当を食べていると、大人は通らない6歩くらいで登頂できるこじんまりした岡の中腹で幼女が「怖い!」と泣き出す。お母さんがやってくる。お弁当を食べているおじさんが怖いとかだったら退場しようと身構えつつ、聞いていると、滑り落ちるのが怖かったらしい。おじさん案件でなくて良かったが、幼女にとってはスペクタクル。

 

子供は移動距離こそ限られているが、大人が道とできないところを移動できるから世界が広い。オトナがこれをやると、世界がより拡がるのだが良いのかどうかは定かではない。可動距離が長いから戻って来られなくなる。

 

 

さておき。

 

お仕事の話。ちょうど面談があったから、やんわり転職の意志を伝える。上層部の目論見としては、先生の補佐みたいなポストを想定している感じ。たしかにその位置、ちょっと楽しそう。割とやんわりしたキャラなのだが、きついことを言わなくても指導するみたいなことはできそうだし、色々おせっかいできる領域が拡がる世界線。あえては喋るようなことはしないけど、喋ろうとすれば言語化はある。効率化にも口が出せるし。

 

ただ、僕が1人だったらありそうな世界線だとしても、僕の世界線上、この職場に長居するということはなさげ。移住もあるし、もっと他に余力使えるのではというスペクタクルの方が楽しみ。割とすんなり行くような気もする。能力とか資金とかは関係なくて、自分がこう在る方が楽しそうという感じ。

 

早速簿記の本を探してみたのだが、駅ビルの本屋では日商簿記のテキストしか無かった。まぁ複式簿記って学として成り立ったものではなく実用の為の道具として発展したものだから、理論の前に実践がある訳で、あんまり根っこみたいなのはないのかもしれない。まぁ学問だって道具みたいなものだし、道具にある規則が理論とも言える。

 

この辺りはハイデガーさんが語っていて、まだ読んでいる途中なのだが、道具は使う物でも使い方という規則があって、道具の存在は物体というより規則に在るみたいなことを書いている。人を道具扱いするのは悪いことだとされていそう。これはきっと道具の概念が浅いからだと思う。

 

僕にとっては、自分は人生劇場を楽しむ為の道具である。

体が無いと体感できないし、動けない。体が無いときの感じは夢で分かるはず。

 

僕の道具性を把握しつつあるこの頃、人が言うところの「知らなくても良いことがある」なんて嘘っぱちでしかないと気付く。知るのが事実だったらともかく、認識はただただ世界が鮮明になるだけで、自己観を左右しない。特に自分が他と分かれているという認識も無くて良い。

 

もちろん物体として分かれているのは当たり前だし、その辺りが曖昧だとは思わないが、なんというか、人って色々埋没されられているのではという感じ。

 

埋まっているのもそれぞれで、何かが発掘されるに違いないとはならないけど、僕の場合は、世界に対して果てが無くて良いという感じ。

 

HSP傾向もあるしINFPでもあるみたいだし、要は世界に対して遠慮があった。

昔はこの遠慮が同調傾向で流されるみたいなことにもなっていたが、今の僕を流せる同調圧力はありえない。

 

この遠慮って結局は、そこは自分にとってどうでも良い領域だったからであって、自分が損なわれていた訳ではなかった。僕を損なうことができるのは僕だけだったというタネ証し。

 

もっとちゃんと自分で在れと憤怒していた人格(気分)は在ったがもう融和している。

 

やれやれ。

僕は認識によって世界が拡がる性質だから、無いところには行けない。田舎の時に不登校とかできなかったし、他人に波長を合わせてしまう。1人で居る時が最もハイペースと気付いたのが最近。

 

そういえば、思考に質量があるという記事を読んで想わずスキした。
この考え方はとても面白い。集合的無意識にも繋がっていそう。

 

ただ、そもそも質量ってなんだろう。

僕はもはや人の考えに重みを感じないし、自分の思索についてもそう。僕の思索は自分の存在に重みを付けるためには行われていないし、なんならもっと良い考え方があって良い。

 

物体としての重みって重力から繋がっている存在であって、これを思考に引き直すとなにやら固定された観念となりそう。多数派の傾向的意識ではない自分の意識を錨として重みにすると、なんだかしんどそうな気もする。抵抗が強くて。

 

何かと繋がっていないと存在が眩むというはありそう。

この何かが質量だとしたら、流れが変わらない。もっと質量がない存在でも良いのではという感じなのだが、僕の思考がなんでこうなったかは言語化できる領域ではないから説明不可能。

 

そもそも、なんで説明可能な自分を自己の存在としないといけないのかもよく分からない。物体的な存在って、言語で説明する前に在るし、その在り方はコントロールできる領域なのでは。いや、実際拙いからもっと実践してみたあとに書くべきところ。

 

はい。おしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。