無軌道

 

 

 

撃沈。ひもじくもやしを買って炒めて食べる。嘘。もやしの味が好きだから勝とうが負けようが定期的に食べている。美味しくないですか。

 

うしおととら。やっぱこの漫画好きだなぁと鑑賞しつつ、隣の人が良い感じになって頑張れ頑張れと観戦していた。引き戻しが2回くらいあって凄かった。エヴァンゲリオンに移りギリギリで初号機が唸り声を上げ、なんぞやと思ったら暴走モード。うおーん。隣のお兄さんが観戦してくれていたのだが、継続せず。不甲斐なくて申し訳ない。

 

しばらくここでは遊べなくなった。ただ、なんとなくこれはこれで気分がすっきりする。遊び場はここだけではないよと言われているのではと。基本的に範囲内であって働いて居れば死にはしないという楽観。遊び場としての最高峰は脳内の思索であって、優先順位は高くないから静かにならないといけない。Kindle飲み放題、違う。読み放題でいっぱい本も読める。漫画もたくさん読んだからいったん休んで、休憩時間はkindle時間にしようかな。メタバースの本も潤沢にありそう。

 

違法ではないが社会的に推奨されない行為を楽しむのは、背徳感というよりは、既定の枠に染まらないという意味であって、行動が現実を作るというシステム思考(by経営の本)からしても、発想を柔軟にするということになる。まぁ単に好きだから享楽しているだけであって、特に依存はないつもり。依存しそうになっていた頃とはちと違う。あの時はもっと罪悪感があった。

 

違法ではなく社会的に推奨されない行為といえば、当たり前だった会食も今となってはやや非推奨。昼間の飲食店でも黙食が推奨されている。夜は呑み会OKなのは基準がよく分からん。煙草が日常空間にあった頃から嫌煙社会になった時と同じような感じ。煙草と同じように、他人が健康上の危険性を持っていると言わんばかり。今の僕は特に飲み会で親睦が深まるとは思っていないから、1人か2人か3人までで飲むのが良い。情報が開示される前に相性を無意識が感じ取っているのではという世界観。

 

煙草言えば、満月さんは煙草を吸わない人なのだが煙草が好きな人。時間を食べている(吸っている)のが良いのだとか。昔の映画には煙草のシーンがあって、煙によって空間が立体化するのが良いという言説を誰に行っても通じないという苦言があった。言われてみれば意識したことはないが、空気の層が可視化されるし、現代の舞台芸術でもスモークを装置として使っているのをいくつか見たことがあるような。僕が煙草で想い出すのは「女のいない男たち」だったか、女性のドライバーが煙草をポイ捨てする描写を書き変えさせた問題。私人対私人だと表現の自由は発動されなくて「配慮」という名の半強制になる。そういうことに目くじら立てる人の方が環境としての影響力は強いと思うのだが、無力を装うのに長けているというか、なんというか。

 

 

漫画の話。

テニス漫画32巻分くらいを読み終えた。「しゃにむにGO」という。

あんまりテニステニスしてはないのは確か。恋愛とか人情みたいなところに寄っている。主人公だけが完全なヒーローできらきらしている。きらきらなりに葛藤もあるが、他の登場人物には及ばない。個人的にもっともは、ヒロインに振られたイトコ。母親の呪詛が強すぎる。これでテニスも無かったらどうなるのだろうという危うさ。

 

硬式テニス部の無名な1人として、そういえば、僕もゾーンに入ったことが1度だけある。サーブを外す気がしなかった。この人こんなに凄かったっけってギャラリーの後輩が言っていたことまで鮮明に。まぁ地力が足りなくて負けたのだが。対戦相手はたしか地区大会の優勝候補の人。負けたら審判するのだが、審判が嫌だったことも思い出した。

 

最後には上の方に居た人が世界大会に出ている。限定されたプロフェッショナルの世界。

そういえば、バドミントンの漫画でもこういうのがあった。なんかこういうの好きなのだよな。H2とか。前年苦しめられた対戦校が予選落ちしているのに、自分のチームは勝っていて、エースの強さを自覚する、みたいな。スポーツ界における天才は怪物。喰いまくる。

 

 

やれやれ。

 

村上春樹さんが絵画ないしクラシック音楽のように物語を綴る人なら、村上龍さんは読み手に色々突き付けてくる人。missingって復刻版ではなく最新版っぽい。スピリチュアルという単語が出てきて、当時にあるはずがないなと。

 

何を突き付けてくるかというと、記憶だった。タイトルからして失われるものは記憶かもしれない。ツツジという単語に対して、地元の公園が思い出された。別に家から近い訳でもなく、デートした訳でもない、なんのセーブポイントでもない場所。ツツジに匂いがあるのかも微妙なのに、その道を覚えている。登っていくと、藤の花があり、鹿の公園がある。帰省した時に原付ブーンして1人でぼーっとした気もする。

 

満月さんの友人が、何か想うところがあって、今後は写真を撮って残そうと思ったと言っていた(撮られたっけ)。分かるところはある。抜け落ちないように、記録として外部の媒体を残しておく。穿ってないが、おそらく近しい人が亡くなった時に、物としての思い出がなかったことに愕然としたのではという想像。

 

ノルウェイの森とmissingにおける記憶の捉え方の違い。

直子とかワタナベは記憶としての存在が欠落することを怖れているが、missingだと記録なんてお構いなしに当人の中に残っているのが記憶としての存在。僕はどちらかというと後者寄りに存在を捉えているし、覚えているとは無関係。

 

僕のことを忘れられたとしても、僕は覚えているで良い。

おそらく僕の存在はあんまり忘れられないのではないかという思う節もあるが、これもあんまり関係ない。

 

僕も物覚えは悪いと思うのだが、当時の通学路くらいは実感的に再起できる。

人間は時間を行き来できるもの。

 

 

未來向きの思索。

 

メタバースアイデンティティをどう再構築するのか。おそらくもっと都合良く自分の存在を捉えられるようになって生きやすくなる。ただ、中核がどうなるのかは微妙なところ。肉体も換装できるようになったとしても精神は換装できないだろうし、精神として独立した人になれるのかどうか。

 

個人的にこの界隈で面白いと思うのが、経済世界がトラストレスになるという話。著者が横文字使えば良いと思っている節があってあんまり解読できないところもある。ブランディングってなんぞやとか。これってきっと専門用語ではなく感覚用語。まぁ導入としてはこれくらいがちょうど良い。

 

貨幣の世界が革新されるのではないかというのが、トラスト(信用)レス(不要)の世界。もともとお金って金という物質的に価値がある物からやってきて、それを辞めて信用で成り立つようにした。国家とか銀行とか紙ぺらに価値を置かせる後ろ盾。電子マネーも信用で成り立っている。

 

信用が不要になるってどういう世界なのかってあまり分からないけど、おそらく仮想通貨のブロックチェーンとか、データベースの手法を発展させているという想像。きちんと穴がなく経済的な動向が刻印されていること自体が証明になるのではなかろうか。

 

コレが良いと思うのは、信用保証料で経済を滞留させている団体の存在意義が無くなって、アダムスミスさんが提唱した神の見えざる手がまともに機能するのではないかというところ。これで言うと国家の存在意義ももっと狭くなってくる。暴力の独占だけで良さげなような。

 

信用で成り立つ世界が胡散臭いのは、実際信用している訳ではなくて、物体的社会的な存在が信用の根拠になっているところ。僕は信用が無くても尊重は有るから、ここで繋がる世界はどうでも良い。

 

世界はもっと自由であるべきだと思うけど、自分だけが都合良い世界観は痛い目見るから辞めといた方が良い。

 

運試し場で惨敗したし。笑

惨敗していく自分も何故か楽しいという世界に対するドМ観。

 

自分で在ることが苦痛なのは楽しんでいないから早々に卒業した方が良い。

いや、ドМ性質であれば何も言わないけども。単なる同志か。

 

はい。

 

寝る。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。

 

ついでに、楽しい自分で居られますように。