どこ

 

 

 

タイムアタックの試み。

 

 

きっちり長時間寝られるようになってきたのかもしれない。二度寝3時間ほどが通常だったが、本日は7時間くらい起きずに寝て、あと1時間しかなかった。調子の良さがちょっと違うような。

 

朝から変な出来事。

出勤しようとしたら、この前見た反対隣りの人が出てきた。金髪の大学生。その人、そのまま1階の部屋の鍵を開けて入って行った。どういうことだ。1階の人とお付き合いしていて、こちらがメイン部屋なのか。人の気配がない時があるし、早朝深夜に洗濯機回すのもそういうことか。

 

と、一頻り考察して外に出ると見知らぬ番号から伝言メモが入っている。

「○○です、どうしたの、学校を休む連絡を入れて下さい」とのこと。こういうとき、見知らぬ番号にかけ直すことはしなくて、まずは番号を調べる。関東に実在する高校だった。ここでさらに想像。

 

まずもっともありそうなのが、①かける側の間違い。明日もかかってきたら間違っていますよと連絡してあげた方が良いだろうが、たぶん大丈夫。親切心でかけ直してもう間違いに気づいているのに気を遣わせるのも煩わしい。ここから先は妄想の領域。②かけられる側の間違い。書き間違いも考えられるが、あえて違う番号を申告したという説。僕の電話番号、覚えやすくてあんまりランダムぽくないから、あえてそれを申告するかというと半々ではある。

 

ふと思ったのが、今の高校って生徒の番号に直接かけるものなのかということ。あきらかに敬語ではなかったし、親の番号にかけている風もない。休む連絡って直接生徒からして問題ないものなのか。そんなことはないはず。若干不可解な朝。

 

そうして、高校にはもう通いたくねぇと思いながら出勤する。大学ならともかくと考えたが、いや、大学もこの時間にこの科目をやるというのはたぶん合っていない。モラトリアムが良かったということもない。違う大学に行っていたら何かあったのかもしれないが、結局こんなの自分の話であって、何処に居たところで可能性が拡がるでもない。

 

自分のペースで拡げるのが性に合っている。

 

どうでも良いが、大学の出席制度って、学生の評定というより大学の稼働率というオトナの事情があるのではないかと穿った思索。学生に教育していますよっていうもっとも分かり易いのは生徒がどれだけ授業に参加しているかだろうし。授業料払っている以上、出席するのも欠席するのも主導権は学生にある訳で。小中高とか会社とは違う。

 

仕事時間は省略。

 

帰り道、月を眺める。雑談が流れてきて知ったのだが、本日は月食とのこと。

たしかに違う貌のお月様。赤々としている。それよりも気になるのが、道々で立ち止まりスマホやらタブレットを掲げている人達。普段の何事もないお月様も綺麗やろがいとなりつつ。おそらく然を愛でているのではなく、珍しさを取集したいのだろうなと見える。何年に1度のようだし。僕もリュウゼツラン見に行ったから人のこと言えないが。

 

という感じで、立ち止まることなく歩きながら見上げつつ帰って来た。

僕としては、人の挙動が物珍しいところの方が気になるという。

 

お月様は晴れた夜空であればだいたい浮かんでいるし、見上げようとさえすればだいたい見えるのに。

 

希少価値を求めるのは経済学の知見における人間の習性だから仕方ない。当たり前のものをあえて眺めるのは人間的ではないない。いや、どちらが人間なのだろう。

 

個人的に読んでいる個人のホームページの記事で、ニコラ・テスラが人口抑制派だったという話を読んだ。人の発生を抑制しようとしたとき、DNAとか基礎疾患とかで判別するしかないが、優良児が社会的にまともになるかどうかとなると、その時点では分からないよなという見解が浮かぶ。そもそも、どういう人物が社会にとって良いかという指標は作ることができないような。僕としては、まともなオトナが公園に吸い殻をそのまま捨ておけるとか、止まれという標識に止まらないドライバーとか、どれだけ社会的に場所を取っていてもやばいオトナだと思っている。まぁ、自然にできない人が居るから罰則を持ったルールが生まれるといういう意味では、社会はこういう人も許容しているというか、許容せざるを得ないという向きもあるのだろうな。

 

従えない人が皆無だったらルールとして既定する必要がないが、そんな社会は参加者全員がむちゃくちゃ賢い。全員が先生みたいにあらゆる可能性を考えながら過ごさないといけない。他人がルールに従わないことにあくせくしてしまう人は、自分が従ってないルールのことも考えないといけない。

 

 

やれやれ。

 

なんだかそわそわする。これは不調の兆しだと思っていたが、もしかしたら快調なのかもしれない。こんなになんの不安も無く生きて良いのかという場違い感。かと言って、全然うぇいうぇい感もない。いや、日常に小躍りタイムがある時点で陽かもしれないが。

 

ちゃんと落ち込まないといけないとか、心配しないといけないとかという精神規範って結局のところ一種の宗教体系っぽい。

 

マルクスさんの論考で、交換は人間の自然ではなく利己心に依るみたいなことが書かれていて、こういうのを義務教育で教えてほしかったわとなる。この交換価値の当たり前は精神にも根差す。自分がやった分は返ってくるものだろうみたいな。僕はどうもここにもともと不具合があった。貰えるものは貰うが、それに対して感謝は無い。だって、それは貴方がしたい施しであって、僕がそこに連動する必要がない。もちろんそれが関係外のことだったり、僕が貰って嬉しかったりすれば何か返さねばとは想う。

 

浮気された元恋人さんにもこういう文脈で感謝はある。

交換で僕を見てなかったし。僕が交換的に生きようとしたから不具合が生じた。

 

でも、交換なき観念で生きている人はそうとうやばいから、あんまり深入りする必要もない。

打算というか、行動経済学的に行動指針が取れる人の方が分かり易くて良い。利己心で人を判断できるのが人生劇場における正当。

 

 

結局は、みたいにまとめられる境地ではないが、僕は世界のことがどんどん分からなくなっている次第。行動指針とか精神指針とか、誰にも倣えないし、吹いたら飛び去るくらいの重みでしかない。

 

はい、ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。