塩梅

 

 

 

運の調子が悪くてもお月様はご機嫌で浮かんでいる。良いことだ。

 

本日は結果というか過程が駄目だった。だらだら惰性で時間を流してしまったらさらさらと貨幣が流れ落ちる。その後お風呂読書でマルクスさんが貨幣は神様みたいなものだと語る。ここでいう神は万能感みたいなものみたい。あと三回は読むから次の印象は変わって来る可能性はある。

 

人となりの把握で第一印象というのがあるが、個人的には第二印象の方に信ぴょう性があるような気がする。第一印象って相手も繕っているかもしれないし、それよりも当人を過去の別人と照らし合わせるから精度が低いというか、類型的・統計的印象になる。そういう関係を構築するのであれば問題ないのか。

 

この下りで、マッチングアプリで出逢って距離感を測りながらデートをするという記事が流れてきて、僕はとんとそういうことをしていないなぁと思った。していたのは20代前半位にぽつぽつ。

 

もちろん、従妹がそういう風に出逢って結婚したし(もう離婚したらしいが)、こういう出逢い方のが、人柄の相性が良い人と出逢える可能性は高い。たまたま生活が一緒な空間だと、そこに居る妙齢の人達が選択肢の全てだし、距離感を測りながら近くなっていく緩慢さはどちらにせよ変わらない。

 

ネットのプロフィールの自己開示とかの方が社会的に擬態している姿よりは露出しているかもしれないし、とか。今後の世代はメタバースの中で恋愛関係とかの関係を構築するのかもしれないし、それが悪いとは思えないのだよな。

 

僕はというと、物理的に会う前に距離が近くなれるかどうか。実際会ってみないと判断できないという人との縁がなくなった。何をもって判断しているか、判断されているのかはよく分からないところではあるが、現在のパートナーの満月さんも最初に物理的に逢ったのはビジネスホテルで寝転んでいる姿だし。僕が拠り所とかまぐあいを目的地としてないからだろうと想像してみるが、引きが強くなっているという人生劇場感で良いのか。

 

今の所物理的に最長記録だった元恋人さんも会う前に告白した。1年くらい電話やメール(当時はLINEがなかった)でやり取りした後だが。僕は物理的な所作より存在的にどうかを見ている。というか、実際会って無くてもやり取りしていたらどういう実際の所作をするのかが分かるは言い過ぎだが、許容できるかどうかは捉えられるような。実際会わないと分からないという感覚がちと分からなくはある。何を大事にしているかとかは文章情報を読んだら読めるような。

 

 

ここで少し別軸。

このご時世で、今後の世界を悲観している人の個人HPの記事。科学の研究記事とかが引用されていて完成度が高くて読んでいる。小さい子がマスクで隠された表情を読めないから、まともな感受性が育つわけがないということを語っているのだが、ここで言う「まとも」って何を指しているのだろう。

 

周りの大人の表情によって感情を醸成させるとか、それによって関係が円滑になっていくみたいな古き良き社会みたいなイメージなのだが、僕はなんというかこういう感覚がさっぱり分からないところはある。本音と建前で言えば表情は建前であって、良い顔をしている人がほんとにいいことを考えている訳でもないし、僕の今の笑顔は特にモデルがある感じもしない。いや、あるかもしれないが、別にこれが実際の人間である必要もないような。

 

例えばこれが、人が生きる生活圏が物理的な体の範囲に限定された社会の継承であれば、そこで生きるために物理的な振る舞いは学習すべきだが、顔付きまで倣えるのかというと微妙なところ。僕は思春期以降基本的に無表情だったし、人の目とか見なかった。少なくとも良い顔で笑ってはいなかったと自己評価。知らんけど。

 

僕の陰キャライフはともかくとして、今後の社会って、そういう因習的な繋がりは無くなるのではないかと想像するし、もっと別の世界で感受性を獲得できるくらいの可能性が子供にはあると思う。普通のオトナに倣っていたら次の社会に調律できないだろうし。

 

VRとかAIとかが発展していけば、大人の方が次の世界観に追いつけなくなるし、たとえ周りがマスクをしていたとしても、声色とか動きとかで人の感情を読み取るくらいできそう。どうあっても洗脳されない人間は25%くらいの比率らしいが、大人が心配したところで時代は変わっていくから、悲観することに意味はなさげ。

 

もちろん悲観することも自由の範疇だし精神衛生に影響なければどれだけ悲観しても良いと思う。

 

マッチングアプリは自発的なお見合いだろうし、マスクで口元が見えなければ他のところから情報を得れば良いじゃないだし。呼吸器疾患関連の人はたしかに大変だと思う。僕も擬態のために付けているが、3年くらい経っても異物でしかない。気を抜くと忘れる。下着を履くのは忘れない。この2つは随分と違うが、何が違うのだろう。

 

 

 

やれやれ。

 

随分と自由だ。自由に責任が伴うっていうのも、自由は悪いことだみたいな価値観がある。もちろん、他者の尊厳を害するような自由はないからはき違えているところもあるが、これを自分が不快なことをする自由が相手に無いと思うのも違う。これは自分が相手にとって不快なことをしたことがない三蔵法師みたいな人だけが言えることで、これを言える人は怖い。パチンコでボタンを暴力的に叩く人よりよっぽど怖い。

 

不快と言えば、仕事場の近所の公園の喫煙者はマナーが悪くて、吸い殻がやたら落ちている。いや、吸い殻捨てるところすぐ側にあるのだが、その20歩を歩けないのは何故だろうって。こういうことをしているから喫煙者のカテゴリーの評判が悪くなる。ただ、これをもって全喫煙者が害悪と捉えるのはそうとう頭が容量オーバーな人。一部の傾向を全体と捉えるのは省エネだが、かなり思考力が落ちている。

 

なんの話だか分からなくなってきた。

 

人が人生劇場を楽しむ上での天啓は忘れることができることだよなと思ったり、忘れ続けても自分が欠落するよなと思ったり。

 

ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。