運勢

 

 

 

満月ではないが、やたらと大きなお月様。どれだけの人が見上げただろう。

現象的に珍しい景色も良いが、日常にも珍しい光景がある。ここ2日出勤ルートが自然と変わって居て、何故だろうと観測。たぶんそのルートにある紫の花に惹かれている。

 

金曜日の仕事は若干緩慢。同期が手首とか首とかにフリル(?)がある服を着ている。人の服装ってあまり見ない方が良い気がするが、別に凝視しなくても残るようになった。時機によっては失礼になりそう、というより、人が人を認識する像にはあんまり服装は含まれていないという学習があったのかもしれない。これは人が欠落しているというより、人ってすげぇなという認識。他人が曖昧過ぎても普通に関係はあるところとか。

 

たしかに、自己認識における存在ってきっと何を装いにするかとは無関係なところだし、そういう面で人を捉えれば、名前と現実の動きくらいがあれば把握できるのかもしれない。だから名前が大事。

 

週の初めに流れてきた雑談で今週は天気が悪いという情報が流れて来たから早めに洗濯したのだが、毎日のどかに晴れていた。この雑談を流した先輩はよく喋る人で、話し相手が居ないときには僕にも雑談を振って来る。個人的なあだ名は「お姫様」。雑談を拝聴したり話したりする限り、相手と話しているというより、「自分が」相手に話しているという感じ。相手は誰でも良いだろうなって。酔っぱらってもこの境地にはなれない。口をつぐむ代わりに飲んで悪酔いする。

 

上司(先生とは違う人)はもしかしたらあんまり話したくない人で、環境に合わせて雑談している節がなくもない。だって、この2人未だに去年の年末に仕事外の飲み屋で会った話で盛り上がっている。いや、別に何を語っても良いし文句はないが、情報共有と過去語りしかできない相手と話していて面白いのか、面白いのかな。むしろ上司の方が気を遣っているように見える。辞められたら困るもんな。人員的な意味で。

 

こういう意味で言ったら、うちの職場は誰も仲良くないと思われる。休日に会ったりしないし。ビジネスライクで楽。僕がプライベートで話してみたい人は先生くらい。生活忙しそうだから無理だが。

 

 

さておき。

 

仕事が終わって一瞬遊びに行きたい衝動に駆られたが、この感じで行ったら負けるだろうという学習があるから自重。

 

とはいえ抑圧はしてなくて、美味しい物食べるか。

昼休憩前に夜ご飯に何作ろうかと想像する。鍋、鍋ならキムチ鍋が良いという発想。

 

帰り道のスーパーで物色。白菜とキムチと豚肉と厚揚げがあれば食材として十分。家にほうれん草と人参もあるし。味付けで、キムチの素を買おうと思ったのだが、何周かしてみてもない。無い物を探しても見つからないから代わりを探す。大根をサイコロ状に切って塗すだけでカクテキができるという調味料があった。どんな味か分からないが、これでいける。

 

ついでに入浴剤も買う。

 

調理。

 

漫画アプリで「one-piece」の魚人島編が無料になっていて読んでいたら若干遅くなる。環境からインストールされる思想の強固さよな。ルフィの主人公性は、偏見があってもやすやす覆せるところなような。考察動画を観て、神話とか既存のファンタジーを下敷きにしているというのは分かりみ。チェンソーマンもきっとそうだが、歴史というか保守というか神話というか、と繋がってない物語って浸透されない。

 

完成品。

カクテキ調理料をうどんスープベースのつゆに入れたらどぎつい色だったからみりんを加えて緩和しようとしたら、最終的にかなり和風によってしまった。キムチ鍋ではなく、キムチ鍋風の和風鍋。味は格別。ちょっと辛さに馴れたお子様でも食べられそう。辛さって痛覚だし、そこまで刺激を求めなくても日常に刺激十分だが、辛さを感じるようにできている以上、娯楽の領域で楽しむ。

 

ほんとうは明日はこの汁にうどんを入れたかったのだが、ご飯が余っているからキムチチゲ風の雑炊の朝ごはんにする。食べたい分だけ食べようとしたらどうしても余る。だされたご飯は全部食べましょうと躾けられたから多少の罪悪感はなくもないが、最終的に冷凍していても食べきれないなら捨ててしまう。

 

体調崩してまで食べるものではない。成長期だったら栄養バランスの関係で、とはいえ、他の食材の栄養分で賄えるなら、あえて嫌いな物を食べる必要もなさげ。僕が子育てする世界線があれば、栄養ではなく、色んな食材を美味しく感じた方が人生楽しいぞよという文脈で、克服レシピを考案すると思うが、独立した他人の偏食をどうこう言う気はない。

 

パクチーだって馴れると癖になるだろう(まだ馴れてない)。

味覚を使えるのも生きているうちだけ。

 

 

 

やれやれ。

諸々で、結局よく分からなくなってきているのは、自己の定義。自分を語るときに、自分ではない外堀の付属品で定義しないといけない思想ってどこからなのだろうと言う話。アイデンティティとか、肯定しないと維持できないほど揺らぐ必要もないだろうし。

 

名前ってたしかに強固な初めの居場所だが、同性同名もあるし、分類としては固有でもない。

普通にハンネで存在できるこのご時世だし。

 

他人の定義もしてない。

 

この思索は一生ものぽいな。

ずっと考え続けよう。

 

では、ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。