じゆう

 

 

村上龍さんの「missing」で、抑うつ状態は世界から色と音が無くなるみたいなことが書かれていて、たしかにそんな時期があったなぁ。もう戻らない(戻れない)けど、あれはあれでシンとして綺麗ではある。雪景色の中に1人ポツンと居るみたいな。長居すると凍える。

 

世界に初めて色が付いたのはいつなのだろうな。ゲームボーイは白黒でも認識できるし、外界の色はもちろん色だが、夢に色が付いたのはもっと最近。色が見えることと彩を感じられることはどうやら違うような。そういえば土曜日の散歩道に前挨拶したどぎついアサガオ様の花が咲いていた。相変わらず激しい彩。

 

上着が要るような季節になって来た。僕はというと、冬の初め用の上着が無くて服装が変わって居ない。止まったり座ったりすると凍えそうになるが、歩いているとちょうど良い。汗もかかないし。良い加減、ユニクロで薄手のダウンを調達した方が良い。見渡すと完全に冬用のコートを着ている人も居るし、スーツだけの人も居るし、体感気温もそれぞれ。

 

仕事では、先生がジム通いを目論んでいるらしい。やっぱり頭が動ける人は体も動かそうとできるのだろうなとほくほく。きっともっと鋭くなるのだろうな。新しいことの研修もあった。今までの勉強法で、なんで予習しなかったのだろうなと思った。資料を3回くらい流し読んでから向かう。今だったら高校の世界史の授業の前に何周か読んで授業に臨みそう。復習より予習派だったのか、と今更ながら自分の性質に気付く。色々損している模様だが、それも運だから仕方ない。自分の性質に気付けるような環境が初めになかった。

 

全く悔やんでない。時間なんていくらでもあるし。時間は奪われるような物ではない。有効活用するもの。

 

そうして仕事時間の手慰みならぬ頭慰みで、そういえば昔ルービックキューブがまったくできなかったなというところから、脳内ルービックキューブを形成しようと試んだ。形は作れるが色が付いてない。そもそも一般的なのって一面5マスだっけ。ついでに脳内で簡略版の将棋盤で詰将棋をやってみるとか。試み段階だから全然上手くいってないが、脳内にこれくらいは余白がある。余裕がない一箇所に留まる状態がおそらく集中と呼ばれるもので、僕は分散型だから集中には向いていない。そもそも集中に向いている生来の人間は居なさそう。まぁどちらにせよ摂取した物事から何を残すのかという方法論だから、残る物が多いようにしたらいい。

 

繰り返すと脳が大事だと認識するというのが正当な暗記法らしいが、だったら、何で一回しかなかった人生劇場の方が残っているのだろう。感動とか衝撃があったからとか体感だったからという脳科学的な説明はありそうだが、あんまり腑分けしていない。

 

 

ちょっと漫画の話。

 

正式名称なんと呼ばれているか知らないけど、ワンピースの映画の歌手が3Dでライブをしている映像がYouTubeにあって、なんというすげぇ時代に生まれたものだと思った。チャンネルを変える為に回すテレビとか回してダイヤルする黒電話が幼少期に残っていた時代だから、どれがもともとなのかも既定しなくて良い世代。インターネットも中学校の視聴覚室でしかできなかったし、高校でやっとガラケー。でも、あの時代にLINEがなくて良かったとは思う。めんどくさくて仕方ないし、何か送らないとノリ悪いと思われそう。いや、そんな時代でもなんだかんだ合わせていたか。結局煩わしくて色んな繋がりを切ってしまった。そして今に至り、人生劇場を楽しんで居る。

 

漫画の話の本題。

アプリでメダル読みできるようになって「ベルセルク」を読み進めているのだが、蝕に入って読むのがしんどくなってきた。最初に読んだ時は引き込まれて一気に読んだのだが、キャスカとフェムトのまぐあいシーンを直に見てしまうガッツの心境を想うとあんまり読みたくないなぁという感じがする。自分の価値観に引き直して読まなくて良くなったから余計に。

 

なんだかこの作者さん、集合的無意識というか宇宙の真理みたいなところから持って帰ってきてないかという感じがある。宗教画みたいな雰囲気あるし。天才的な詩人とも近そう。

 

理不尽に晒され続けてもガッツは人間を失っていないし、動きの中にしか存在は無いみたいな。自分を定義していない。

 

 

やれやれ。

 

動きと言えば、日記を書いている人が日記外で何をしているのだろうって気になる。日記の中でしか存在しない訳ないのに、読むとそこにしか居ない感じが多い。気のせいかもしれない。ただ、日記の機能は記録だから記録は良いようにも悪いようにも操作できる。ここで監視できるのは自分のまなざししかない。

 

これは現実的日常も同じで、他人は自分のことをそれほど見ては居ないということ。僕は結構どうでも良いところを見ているけども、評価の為に見ている監視ではなくただの観測。

 

ここの観点は個人的にとても大事で、自分が他人を観測しているようには他人は自分のこを見ていないと気付いてしまえば楽になれる。楽になったところで1人は1人なのだが、これと誰かと一緒に居られるというのは別の話。

 

他人からの評価が割とどうでも良いと思ってきたからこそ、自分がしたいことが起こる。

この日記も自己顕示欲の権限なのかとずっと疑問だったが、全然そんなことなかった。むかーし、小説を書くような作家は自分が読まれたいから書いているのだと大学時代の友人が言っていて、ほんまかいなと想っていたのだが、そういう人が大多数だとしても、あふれ出たなにかを言語化してお裾分けしようかみたいな人も居ても良い。

 

きっと詩人で残っている人はそんな変人。

詩をどうやって読んだら良いのかの方法論がまだ確立していないからなんとも言えないが、きっと文法法則で読むのではなく、鑑賞するものなのだろうな。

 

鑑賞と賞味はとても似ていて、僕にとって文章は食べ物みたいなものだから、もう少しで越えられそう。

 

現実的アイコン的人生劇場について。

僕が漫画とか物語とか詩とか動画に移入しなくて迷子して帰って来られるのは、確立した強固な人格があるからなのではないかと仮定してみたい。感想コメントってだいだいその場の一体感を醸すもので、なんであえてそんなコメントをしているのだろうって思う。読むのは楽しいのだが、その人自身の存在は何処なのだろう。

 

僕は特に現実を捨てたモノではないと思っている。無関係の赤の他人から親切を感じることがあるし、人が自己本位でしかないみたいな印象を持っていない。ただ、これは僕の現実的アイコンだからという説が浮上してきた。職場のエレベーターで僕が開を押して譲ろうかと思っていたら先に押して譲ってくれる人が居たり、昔の交流で飲み会の席において無言で飲んでいてもなんとなく承認されたり。

 

飲み会は変人だという奇特感でちやほやされたのかもしれないが、エレベーターはどうなのだろう。譲って貰ったらちゃんとお礼は言う。母親から食料が送られてくるより有難いこと。心配は関係の中だが、譲るのは誰にも褒められない当人の人格の話。

 

おばあちゃんに良い人見つけたよって母親を通り越して報告するか。

そんなことをすると母親がぐずりそうだが、そこに気遣う意志はない。

 

現実的アイコンとしての不自由も感じられなくなってきた辺りやばいな。

職場の飲み会で唄ったりしそう。

 

もちろん、これは現実がどうでも良いではなく、そんなことで評価が変わる現実であれば居なくなっても構わないというだけ。試し行為ではあるが、試さなくも問題ないが前提。

 

ショーペンハウアーさんの「知性について」で、一所に傾注できないことを哲学者の神髄みたいに書いている。たしかに資質はあるかもしれない。

 

ここまで。

おやすみなさい。

 

良い夢を。