じぶん

 

 

 

カラスと闘う夢を見た。闘争というか一方的に負けている。現実でも素手ではきっと勝てない。腕を掴んできた足をちぎったのかそんな感触がなくもない。喰い込む感触が強い。なんでこんな夢。別に8本足でもなかった。

 

やたらと眠い目覚め。良く寝たということ。ここ二日忘れ物をする。昨日は財布、本日は500ミリリットルの水ペットボトル。急いで歩いても支障がない季節だから特に問題ない。白いお月様を眺める余裕くらいはある。とか言って着く頃には汗がじんわり。

 

仕事は、暇だ。その分周りが良く観測される。新人のさらに新人さんの人のびっしり書かれたノートが見えて凄い。僕も次の初めての仕事の時はメモ取るフリしないと。古参の先輩は新しいことを研修するのがしんどそう。そりゃそうだよな、仕事が増えても給料が増える訳でもないみたいだし、普通の因果的思考。

 

どうでも良いが、珍しく先生が雑談を振りに歩いてきた。

普通に仕事の知識の共有の話で、へーと聞く。僕には話振らなくてもモチベーションを左右しないという認識だと思っていたが、何かの変化でもあったのだろうか。先生の知識とか思考はこの仕事場の共有財産みたいな存在だから、あんまり時間取っちゃいけないと思う。もちろんこれって仕事の仕方としては危うい。自分の仕事をこなすためには先生(の知識と思考)を最大限活用するべきとも言える。先輩も後輩もこのやり方。同期はちょっと僕に倣ってそうだが、大人になってから人のやり方に倣えるとそうとう凄いことよな。

 

習うふりはオトナになるほど上手くなるが、あえて自分を更新しなくて済む手法があるのなら、そちらの方が省エネになる。同期はゆるゆるだが、なんか姿勢がちょっと違うようなという観測。

 

別に上から目線でもなんでもない。

僕はかろうじてここまで頭を動かしてやっとこさだから、地頭が良い訳でも記憶力が良い訳でもない。そういう範疇で生きないようにしたとも言えるけれども。

 

次に追加するお風呂読書の本は農学の本と決めた。

本からの繋がりではなく、単にたまたまそういう話を聞いただけ。満月さんが農学の講義を受けるのだとか(結局流れた)。そういえば我が家は椎茸農家だったし、お祖母ちゃんちは養蚕をしていた。カイコが桑の葉の上でうぞうぞしているのを見て育った幼少期。父親は農学部だったから、実家に帰れば当時のテキストを発掘できそうだが、どうせなら最新版の方が良い。幼稚園時、さつま芋を掘っていてムカデに噛まれて痛かった。痛み自体は残っていないが、痛かったという記録は残っている。〇したと思っていたムカデに噛まれるという。スズメ蜂にも刺されたことある。当時熱が出た。免疫が頑張っていたのだろうな。蛇に噛まれたことはない、はず。

 

そんなこんな仕事帰り。

明日明後日はちんまり残業。お姫様先輩とお洒落な先輩が休みだからその補填。お姫様先輩はライブに行くらしい。こんなことがないと、、、みたいなことをぼそっと言っていたが、それならまず生活時間を充填するようにするべきではと思わなくもないが、そういう人生も人それぞれ。個人的にはあぶく銭を稼ぐかという感じで、特に苦はない。

 

とはいえ、仕事が終わってからの時間が減るから、先に残りの今週分の副菜を作るかとなる。レンチン料理だが、久々に食べたくなった。きのこ類(なんでも良い)にバターを乗っけてレンチンして、ゆかりと醤油と甘めのお酢(商品名:優しいお酢)を加えたマリネっぽいやつ。美味しい。ご飯については備えるのに、経済的にはアンバランスという無防備性はなんだろう。まぁ、お金があったところで健康にはならないが、自炊すれば体調が整うくらいの意味合い。煙草吸おうがお酒呑もうが日常パートできちんと食べていればだいたい問題なさげ。体が求めていないのに習慣で食べてしまうのが最も不健康かもしれない。胃がギブアップ。

 

昔は呑んだら悲観的というか破滅的になったこともあったが、今はそんなことがない。

朝起きて昨日何を書いたかなって思い返して若干恥ずかしくなることもあるが、恥ずかしいという感覚って、世界への参与。最初の頃はおねしょしたりルールが全然分からなくて皿を舐めたり、恥ずかしいことばかりだったはず。大人になるということは棲息地が固定されるという向きもあるが、未開地ではいつだって恥ずかしいことになる。

 

もっと堀り下げてみると、この恥の観念って、結局はその「場」にもともと棲息している人がもっている当たり前を持ち合わせていないことに対する排斥なのだろうな。旧約聖書の時代からあった。全裸は恥ずかしいことなのか、みたいな。ちなみに僕は全然恥ずかしくない。もちろんそこに快楽はないから、普通に生活圏で全裸になるタイミングではそうなるだけ。

 

 

満月さんがちょうど良い人だというのは、自分の当たり前を僕に適用しないところ。僕も反抗して皮肉を言わなくて良くなりつつある。こだわりがないということは無いのだが、こだわりから外れたとしても何もない。僕はもともとの性質的に相手(世界)の当たり前から外れないようにしなければという強迫観念があって不自由していた。だから、人と関わるのがしんどい。主観的にはしんどいという感覚も無かったのだが、常態的に多数人と関わってなくてもなんともないからそういうことだった。社交性がないということもないのだが、誰かと関わっていないと自己の存在が観測できないということがない。

 

こういうややこしい人格だから、ほんとにしたいことみたいなこともよく分からないし、何はなくとも充足されている。ということは、なんでもして良いのだろうなともなってくる。

 

自己を既定することは大事だが、外に対して定義される自己がプロフィールでしかないのであれば何か違うのではないかと思わなくもない。いや、別にこの世界観の人の人生劇場に文句はないが、ということは、他者もプロフィールで捉えるのだろうなとなり、関わってもそんなに面白くないだろうなという推定が働く。

 

あんまり書くと満月さんに辛辣だと言われそうだから止めとこう。

 

 

最後。

 

他人(世界)を愛するためには自分を愛さないと無理みたいなことがお風呂読書に書かれていた。自己を愛するということをどう定義するかの問題で、保護とか教育になってくると自分を愛することはとてもしんどい。僕の中での愛は放任とか観測とか受容だから、自分がどうなるかが楽しみだし、他者もそういう意味で愛している。

 

満月さんは僕と過ごしている時は顔がほくほくしていて愛しい。

 

ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。