欲しいがまま

 

 

なかなかグロテスクな夢。からくりサーカスの影響か。歯車に挟まれたり巻き込まれたり。読み返しは20巻くらいまで進んでいる。核心に至ってくる辺り。ルシールの退場シーンは良き。あれ、僕が人生劇場からの退場という比喩を使い始めたのは結構最近なのだが、顕在化したのか。師匠の死に方くらい選ばせろぃという顔付きも好き。

 

 

さておき。

 

仕事は暇。暇な時に何をするかって眺めると面白い。多いのが、今まで取ったメモを復習する人達。勤勉で素晴らしい。僕はメモを残していないというか、記憶はあんまり役に立たない派というか、遊びたがりなので、他の人が係っているいまの案件を自分だったらどう解くかということ考えたり、今日解決している案件を読み返している。あと、手を抜かないのを突き詰めてみるとか。空いている人がたくさん居るから、早くスタンバイ状態になる必要はないのだが、ゆっくり仕事しても時間が延びるだけだから、早めにスタンバイ状態にする。

 

こういう微々たる所作が、ジョセフィーヌ(パートナーさんが命名した今かたかた鳴らせているキーボード)との戯れがより熟達するということになる。別に向上心ではない。命名でもっとも近いのは、遊び心。こちらの方がきっと残っていく。

 

胃腸がやっとこさの回復。空腹をきちんと感じる。だからとて、いっぱい食べるということにはならない。空腹時間長いとお弁当食べたあとに血糖値が急上昇して眠気が大変だが、それも含めてきちんと体が反応することは良いことだとする。

 

昨日から自炊の醍醐味を満喫している感。

 

昨日は広告の品で国産牛の切り落としが100グラム200何十円だった。買ったのだが、スーパーの世界観だと、これはかなり高い。鶏胸肉にすれば数十円で買えるし、豚小間肉でも100円ちょい。ただ、僕が節約のために自炊の労を買っている訳でもない。食いたい物を喰えば良いというスタンス。食いたい物が無ければ、日常パートとして安い食品をローテーションするが、時々もやしすら食べたくなるというお手軽な肉体。安いから食べているのではなく美味しいから食べる。

 

本日は、デリッシュの基本レシピを見ていて、鯖の味噌煮が食べたくなった。副菜も掲載されていた、ほうれん草をしらすかつお節とポン酢で和えた物(特にほうれん草を欲する身体)。全部揃えても1食で終わらない量だし、居酒屋1食分にもならない。スーパーに行くような世界観だとタブーな高い食材を買ってしまっても。なによりの美食は肉体のリクエストに応えること。

 

ほうれん草はほぼレシピを再現できたが、鯖の味噌煮は正直なところ再現度は微妙。最初に投入した水が多かったのか、特有のとろっとした味噌感がない。でも、そんな濃厚なのが食べたかったのかというさらに微妙で、この味でちょうど良い。生姜とネギも美味しい。

 

個人的に料理は作らなきゃいけないとか、女性にとって必須技能とは思わない。同期がお弁当を作ってきたことは見かけたことがない。言い訳のように夜は作っているとは言っていたが、別にどっちでも良い。今時は栄養バランスを考えてくれた宅配メニューもあるみたいだし、家事労働における「食」についてはどう時間をかけるかという選択肢が拡がっているから、あえて料理をする意義とか義務はどこにもない。

 

僕はだからやっているという説。

天邪鬼気質だから、そういうスキルがないと生活できないみたいな世界観だったらあえてやらなくなる気がする。宿題もしたくなかったし、やったところで何も身についてないし。

 

まぁ、いつの間にかどこぞのお惣菜とかお酒の肴の市販品より美味しくなったし、特に労働とも思わなくなったから省エネではある。お弁当作る労力より、ご飯時にご飯屋さんとかコンビニに並ぶ労力の方が遥かにしんどい。

 

明日は残ったネギで、ネギ塩ダレてきな鶏肉炒めをする予定。

空腹を埋めるのはほとんどなんでも良い。満腹時に明日何を食べようかとできる方が人間的。

 

問題は、家事にかけなきゃいけない時間が減って余った時間をどう使えるかというところ。

僕は、余った時間で遊べば良いという立場。自己投資も成果があるかどうか分からないギャンブルみたいな遊びの一種だし。とか書くと真面目にもくもくとしている人に怒られるのだろうか。ただ、暇つぶしで何かするという感覚はよろしくない。だって、暇は無限に細分化するのだから潰し切れなくて、空虚な時間になる。0と1の間にある少数の数みたいに。

 

だから、誰かの暇つぶし時間に消費される時間がよろしくないのだろうな。

きちんと遊びに来い、みたいな。

 

やれやれ。

そろそろお風呂読書の無知の塔にも新しい風をと想うのだが、なかなか良い出逢いがやってこない。もっと大きい本屋か古書店を所望しているのか。PDF論文は保存しているが、お風呂には持っていけないし。

 

いや、文句はない。今読んでいる本は繰り返す価値がある。

建築学の視点から見る空間論の本で、建築活動は言語活動だという持論がある人の話。分かりみ。文章は構造物でもある。ソシュールさんの恣意的な記号性も又聞きだからきちんと原文を読まねば。

 

あと、経営学におけるビジョン観もなんとなく近そうで困る(喜ぶ)。仕事場におけるビジョンは、その仕事場がどうなるかというスケールであって、自分個人がそれによって効用を得るみたいなところは別物。政治だって、他の国民も居る中で自分(あるいは含まれる属性)だけが得すれば良いという話でもない。

 

もちろん僕は博愛主義者ではない。博愛主義者が万物を愛しているかもやや疑問ではある。何か限定された世界の中での万物というスケールなような。

 

どうでも良い発想を読むと喜ぶ人が居るらしいから、どうでも良い話を1つ。

人は何によって特定されるかという命題。

 

名前だと同性同名の人が居るから特定できない。ただ、世界を限定すれば同性同名の1人しか居なくなる。居たとしても何か他の情報で特定は可能。これが空間軸。

 

でも、時間軸において、他人がその人を把握しようとしたとき、「いつ」のその人なのだろうってならないか。文章体だったらなおさら、書かれたその人はいまのその人と時間がずれているし、時間が無関係なその人を特定の人にするのであれば、退場した人だって存在として生きている人と同じくなる。

 

最終的に、人は人(自分も含めて)を特定した存在として把握していないということになった。過去を前提としつつ、未來に変動可能性があり、空間軸でも移動しているのにてきとーにその人だと特定した気になっているという説。だから空間で関係しなくなった人はすぐ忘れるし、時間で関係した人はまぁまぁ残る。

 

ちなみに、ここで言っている空間も時間も、物理学が把握している自然ではなく主観的なそれという意味。物理学的なこれは人間の意識が把握できるものではない。あくまで共通に使える道具的な概念として上澄みを掬っているだけの主観的な現実。

 

別に現実に迷ってもいない。現実にも色々階層があるのだろうなと把握されて面白いだけ。

現実も道具のようなもの。仕事における現実と素朴に把握される現実はずれているし、ここを合わす必要もない。人格の統一とは別の話。

 

もう1つ。

 

僕は宵顔さんのことは肉体的な意味ではなく一生好きだろうなと思う。人生劇場における推し的な意味。パートナーが夫になって良かったなと思うのだが、文章の表現として、自分に何か寄与があることを「素晴らしい」とすることとか、相手を「可哀そう」と言語化できるのって、ほんとに関わっているのかということがちょっと気になる。天邪鬼的な表現であれあば良いのだが。

 

パートナーさん曰く、「もの書きは基本的に自分が1番」とのことだが、そういう世界観で生きるのって、凄く寂しそう。僕はもの書きではなくもの読みなので、存在に淋しさはない。この人とだったら楽しいだろうなという意味でのパートナー観。どれだけ美人な人が現われたところで、この人だったら大丈夫だろうなという感覚には勝たれない。

 

市場価値無き自分で良いと言ってくれる人ができた以上、市場価値を高めても良い。

顔に寄ってくる人が嫌だったって、女性性の若さとかみてくれに寄ってくる御仁が嫌だと書いている誰かさんと同じようだが、ちと違う。

 

僕の文章は、遊びに来て読めば良いし、存在と連動しているのは当たり前だが、もの書きの人と同じところではきっと生きていない。

 

はい、おしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。