だっぴ

 

 

寝違えたのか右から後ろを向こうとすると肩甲骨の内側の筋が痛む。どんな寝方や。揉み解しで肩甲骨をぐりぐりされたい。マッサージ未体験だが。

 

休日は朝に余裕があるが、胃にはあまり余裕がなかった。昨日の夜はローストビーフ(399円)と、ベビーリーフと蕪の浅漬けしか食べてないから、お腹空いてなくても食べなきゃなと、いただき物の和歌山ラーメンを食べた。固めの麺と味噌っぽい濃いスープ。美味しいとと思うのだが、如何せんうどん島(四国)生まれで、ラーメンを食べる習慣がないから、良し悪しが分からない。

 

そういえば昨日の淀川渡りの手前。たしかもう13時過ぎぐらいだったが、2軒続けてラーメン屋さんぽいところで行列。大学で大阪来たときに皆ラーメン好きなと思ったものだった。静岡で言うところのさわやかハンバーグかとなったが、あっちは並ばれることが前提でもっと待つ環境が整っていた。ラーメン屋さんは立って待つのみ。そこまでして待って食べたいのかと思わなくもないが、何に時間を使うかも人それぞれだから特に何もない。僕の時間の遣い方も人のことは言えない。まぁ並ぶのが楽しい人が居ても良かろう。

 

ごろごろして起きて、出発。最寄りのコンビニでホットカフェラテを買って一服しようと思ったら、ここでも行列だった。少し歩けばコンビニはいくつかあるし、特にこだわりもないからスルー。そのまま下ってバッティングセンターで体を動かそうかと目論んだが、大通りを渡る信号が赤になったからスルー。意志が薄弱というよりなんでも良いだけのだが、傍目から見れば気変わりが激しいとなりそう。

 

昨日も書いたっけ。偉人とか先達はまずは1つのことを固めろ、わき目を振っている人は何事も大成しないみたいなことを語る。僕はそういうのが無理だった。続けること自体に苦は皆無だが、何かだけに集中するのが駄目っぽい。生活していれば当然の感覚だが、それだけしかせず生きるなんてことできないのと同じ(違うか)。

 

そうこうして運試し。コーヒーは自販機になった。運試し場はその辺りに3軒あってもっともこじんまりした場。常連の人は若いお姉ちゃんから構ってもらえるという差別化があるのかとふと思ったが、常連の人は何処でも店員と話すのか。

 

この場の人達って結構自己瞑想みたいな感じで、なんか良き。ネカフェより何かマナーが良いような。もちろんただの印象論。僕はいつ飽きるのか。飽きさせない演出を醸してくれるしもう少し先か。初当たりが深くてヒリヒリしていたら、ある程度挽回があった。ベルセルクのゾット先に行けていないのが気になる。RUSH入ったのにすぐ終焉。ユニコーンで言うところのシャアみたいな人がENDを持ってくるのと同じ。

 

この時間を使って漫画を読む。「アオアシ」の最新巻。やっぱり引き留めたか。この漫画の主人公、まさに少年漫画で良き。自分がこの場に居るのは(世界線)の細い道をきちんと通れて来たから。それは周りの人がガイドになっているとか世界観も似ている。

 

僕はサッカーはほとんどやったことない。高校の授業とか、ウイニングイレブンとかでやっただけ。でもサッカー漫画は好き。バスケも同じ感じ。

 

ついでに、テニス漫画も読んだ。「ラブ」というやや古いのだが、高校時代に部室に置いてあった本。個人的には部室に「ベイビーステップ」が置いてあったら僕もコントロールを探求したに違いなく、ちと惜しい。環境大事。

 

ともあれ、取りこぼしてこその人生劇場だから、拾えなかったものに後悔するより、これから手に取ることができそうなものにわくわくするのが醍醐味。僕の読書癖に文句を付ける人も居ないし、僕の生活を読んでくれる人(不可視)も居るみたいだし。

 

運試し場はまだまだ見どころがある。

勝つとか負けるとかより演出が楽しいし、自分のことも鮮明に観測されるし。

 

 

やれやれ。

 

昨日満月さんが寝てしまって、感覚が面白くて思わず越境してコメントしてしまった。

「性に疲れる」ってなかなかの至言。僕も男性の競争社会からは早々に外れてしまっているし、なんなら家督を継ぐ長男性からも外れがち。こういうのって人間性というよりは単なる生まれ持った条件みたいなもので、あんまり当人自体とは関係ないんだよな。

 

別に何ができる訳でもないし、何をしようというのもないから勝手に人生劇場が楽しくありますようにと祈った。祈りは自由。

 

性も含めた前提条件以前に自分が在るって当たり前のことだが、これが見えてしまうと手段が瓦解するから、宗教なり帰属意識なりでまとめる必要があったのだろうな。次の時代のメタバースで前提条件は不問になる世界においてまとまりがきちんと収まるかと想像するに、案外いけそうな気はする。参与の意識が希薄になると別物の外から来た概念(決まり事)に従うしかないが、自分がそこに参与しているという感覚があれば、そうそう人は変なことをしないだろうし。小中高で生徒会とかなんとか係とかあったが、全員を並列的なんとか係にしたら変な差別化は起こらないような。まとめ役が立場的に強いというのは単なる惰性的社会観だし。

 

 

個人的な話。

 

満月さんが僕を捨てないと昨日書いた自分の言葉に対する解釈。

歴代の人って、別に全部捨てられた訳でもないし、捨てたこともあるのだが、これって結局は相手を自分の世界線として維持できるかどうかだろうなって。

 

僕がここまで×(別に悪いとは思わない)付かずに生きいてるのは、人に縋る人が駄目だったのだろうなというところ。僕がむかーしすごく好きだった人と再会して世界線としてはこの人と番になる可能性もあったのだが、なんか言い分が駄目だった。僕ではなくてもできそうな役割。

 

僕がほんとうにこの人との世界線を欲していたら、我ながら人の気持ち良いところは無自覚で突けるからたぶんできた。可能という意味では。男のも突くからな(物理的な意味ではなく)。

 

変な解釈。

 

満月さんはやっと来た僕に縋らず好いてくれる人の模様。

生活とか人格とは別の存在として。僕の無軌道な発言に勝手に責められたりしないし。いや責めている向きはあるが、気にならない。時々殴られるが、それによって僕を世界線から離すことにはならそうだし。

 

こういう感覚で随分すっきりしてきた。

物理的に関係していないと人とみなせない人ではなかったし、何かしているから関係でもない。行動しているから相手の価値が決まる訳でもない。そもそも人って価値尺度では測れないし。

 

僕はもっと僕で在べきなのかな。

知らんけど。

 

おしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い夢と良い人生劇場を。

 

(皆好き)