だいたいは徒然

 

 

 

雨と胃もたれの週初め。天気の具合、体調と気分は無関係。どちらも久々でなんだか楽しい。雨による行動制限(弁当撮れない)も胃もたれによる食事制限(毎日プチ断食だからそのうち回復する)もなんのその。どうでも良いが、毎日牛乳飲むようになったからか、身長が伸びた気がする(気分)。

 

 

仕事で上手くいったというか、ばちっと当たってすっきりした。抽象的にしか書けないが、調査系のカテゴリーで、原因を論理と知識と最終的には当て勘が特定していく過程が楽しかった。実際のところは社会時間に迫られていたのだが、有事でも中は楽しんでおく。

 

もともと同期が受けた案件の続きみたいなものでその上今週は再早番でシフトが一緒だった。終わった後、どうやって特定したのですかと聞かれることになり、こうやってこうして、最終的には手探りで見つけたよと説明する(1分くらい)。

 

説明し終えると、同期から説明させてしまってすみませんと言われた。説明することが仕事になるのだから、説明って経済的価値があるのかとふと想う(この仕事は説明より聞くことの方が重要で、聞くことにも当然経済的な価値がある)。説明しんどいもんな、、ほんまか?

 

僕は自分を説明することについては諦めているが、自分以外のことを説明することについては特に苦にしてないのかもしれない。相手の感じで分かったというのが読めるのが嬉しい。独り占めの感覚がないのはこういうところで、知見を勿体ぶるということはない。語れないことは僕がまだ分かっていないこと。

 

自分のことは叙述はできても説明できることではない。

 

仕事外だからまだ良いにしろ、現実だと自己主張みたいな色味もあってなかなか純粋に説明することはできないよなぁと思う次第。教えたい訳ではなく、相手の需要に過不足なく説明できるのが良き。需要がないことを押し付ける衝動もないし、自分の知見を認識しているだけでできることではないから必然的に独りよがりにはなり得ない。

 

なんだか非現実的なことばかり書いている気がしていて、たまにはちゃんと仕事もしていますよということも書いてみる。

 

仕事して、ご飯作って、文章書いて、お勉強的な読書に併せて全然関係ない読書もして、それでも追いついてない、何もしていない気がするのはなんなのだろうな。

 

インプットとアウトプットの作業において世の中では集中が良きこととされている。これっておそらく、幼少期の教育論の名残であって、個人的には弊害しかないと思っている。ほんとに傾注しているのは没頭であって集中とは別の話だし、何かを処理する時にそれだけ見ていたらもったいないというか、自分の持ち腐れ。

 

インプットに集中をしないといけないのは、ほんとに全く知らない領域を学んでいかないといけない義務教育自体のことで、無理矢理詰め込むという意味の集中=勉強時間が必要だった。でも、大人の強みは人生経験であって、実体験で培ったものと全く関係しない対象って普通の資格試験ぐらいでは無いと思われる。あれと近いかもしれないとか自分の中で繋げる方が単なる暗記より残る。

 

アウトプットの時も同じようなもので、リラックスしてないと上手く視野が拡がらない。集中よりも意識を分散させるスキルの方が大事な気がする。社会規範として集中しないといけないという場面であえて分散させるスキル。他のことに気が取られるということではなく、他のことも見えるような視野の確保。

 

ぼーっと何も考えないようにするのも、考えているポーズではなく無意識の鍋が煮えてくるのに任せるということで、意識的な思考至上主義から離れること。全く考えないようにするって無茶苦茶難しいから、呼吸を意識するとか、歩いているときにどう筋肉が動いているのか意識するかで、意識を別のところに持っていく。

 

音楽とか宗教もある意味近いところに在りそう。どちらもエゴからの解放を目的としているような。あぁ演劇とかもそうなのか。

 

こういう、一生完成しない人生ってとても生きがいがあると思う。思わない?

 

そういえば、「線は、僕を描く」の次は三浦さんの植物学者に恋をした食堂の店員が主人公の本。ここを読んで植物学者が男性だと思った人はバイアスがかかっている。最後に読む本は直感でしか選んでいない。植物学というフレーズと作者だけで買った。三浦さんの本は、10年ほど前、東京に行った帰りに部屋の鍵を落とし部屋に帰れなくなり携帯の電池も切れ、その後知り合いと飲んだ際、財布も落として準ホームレスになった時にこの人の本をブックオフで売って電話代を確保したという逸話がある。今もだが、物語のような人生に生きている。

 

食という職業について、「生と死を繋ぐもの」だから好きなのだというフレーズがあった。分からなくもない。ただ、どんな仕事だろうが生活だろうが非生活だろうが、いってしまえば全てがこれだろうなとも想う。全部生と死を繋ぐ営み。僕も生を楽しんでいるが、これは生に価値があるとしているからではなく、生と死の間の暇を潰す営みだとしたからというところがある。価値があるがどうかってその字義上、他人との共有が求められるもので、その中身にほんとに価値があるかは共通語彙の外にある。中身のない言葉で自分の人生決めたくない。

 

「AIは人を憎まない」で、幸せを基準とするなら、人類全部の脳を管に繋げて幸せホルモンを強制的に送り付ければ良いという話がある。たしかに幸福感に価値があるならこれも1つの合理性。とはいえ、合理主義者もそういうことを現実的としている訳ではなく、「効用」を基準としているらしい。僕もこの単語の方がしっくりくる。個人の効用というより全体の効用みたいな話。

 

主観的な幸せをどう扱うかは勝手だが、それを外に及ぼそうとするなら、自分の幸せが他人の幸せとするのではなく、統計的な効用で語るべき。

 

僕の人生上、昔はそういう人がいっぱい居た。今は職場も含めて全然居ない。ドライな世界の方が全然生きやすい。自身もドライというか、幸せという理想があるのであれば当人がそれであれば良いとは思うから、ハッピーでありますようにとは祈れる。ただ、僕は幸せを信じていない。なんなら幸せであるかどうかより、当人が当人であれる方がよほど勝手に嬉しい。

 

なんだか、凄くどうでも良い自分の癖が想起された。プライベートで人の名前を呼んだり、自分の呼称を確定したりするのが苦手。仕事では名前を呼ぶことに苦は無いしむしろ積極的に呼ぶ。貴方を特定していますよという表現だから。インターネット世界でもそう。

 

大昔の話だが、高校1年時の室長を卒業した後でも室長と呼んでいたら良い加減名前を読んでくれと言われて気恥ずかしかった。他のもともとあだ名が付いている人とか、もともと実名が通名みたいな人は問題ないという不思議。

 

宵顔さんと何回あった時も一度も現実では呼んでない。ここではこれだけあだ名つけて呼んでいるのに。

 

この違和感と、名前を付けることによって存在が起こるというのはなにか繋がりがあるのかもしれない。あえて目の前にある対象の名前を呼ぶのはなんか変な感じがする。もちろん呼ぶときは「おい」とかみたいな指示語は遣わないが、似たようなところはあるのかも。

 

母親と通話するときも、自分の呼称をしないように話す。僕も俺も何か違うようなという感じ。別に遣わなくても話せるし。だから主語がないと言われることがあるのか。

 

僕で統一したら良いのだろうが、内側の方が難しい。仕事ではわたくしで良いし。

 

この呼称問題、まわりが自分のことを俺と呼び出した頃からずっと引っかかっている。

呼称と存在の距離感。

 

意味分からないしどうでも良い問題だからこそ僕の中では大事なこと。

 

何の話なのだろうな。

 

はい。

 

あと、僕は人のことを経年だけの存在として読まないようになって、僕も含めてだいたい皆幼いのではという世界観になっている。まぁ、完成した人間なんてほとんどおらず、あるとすれば一生を何かに没頭できるような人格を持った人。将棋界隈には居そうな。ただ、こういう人間の極致の人が、普通の人間的生活ができるかというと、どうなのだろう。

 

人間、ムツカシイ。

 

おしまい。

 

おやすみなさい。

 

ハッピーでありますように。