知らぬ間に

事態は進まなかったり進んだり。

起き抜けに強烈な胃痛。久々。どうしたことだろう。意志自由エネルギー理論の本で、アロスタシスの機能においてある事態になったときの体の状態を事前確率分布として収集しているから、先に体の具合をそっち寄りにして結果との誤差を減らすというのがあった。

なるほど、楽しみなこととか、しんどいことが未来に起こることが決まった時に、気分が先にそっち寄りになるのはこういう仕組みなのか。面白いし、何か他にも使えそうな予感。あるていど更新していけるというか、操作できそうな領域。意志の現実化のタネのような感じで、もはやちょっと使っている。

朝も水は出さない。ミネラルウォーターで歯磨きと髭剃りと顔洗い。まぁ朝は洗顔料使って洗わない方が良いらしいから、水洗いで目ヤニを取るくらいで問題ない。

排水も控えていたため、朝一の大きい方のお花摘みは我慢してコンビニで。最寄りのコンビニは長いこと占拠している人が居て、次のコンビニまで行った。生理現象もなんとかなるものだ。

出勤して上司たる先生に本日は何かしらあるかもしれないと報告。心配してくれたし、ちょくせつ住民同士でやり取りするのは非常識だろうと憤慨していた。仕事をこなしつつ、管理会社と施工業者とも連絡を取る。連絡取ることが苦でなくなっているのはほんと、いまの仕事の効用。我、まともな社会人なり。

仕事を早上がりするような事態にはならなくて、原因が見つかって修繕できたのかなと思って、はいない。帰り道で電話がかかってくる。とりあず水漏れは止まったらしいとのこと。良かった。土曜日にトイレ周りの排水をコーティングしたいとのことでいったん収まる。

並行してちょうど母親から連絡が来ていたから折り返す。

雪が凄いとかこの波のこととか、諸々がありつつ、交際関係の進捗を聞かれる。同年代のいとこはSNSですぐ恋人ができているとか言ってきたから、いや楽しく過ごしているお付き合いしている人はおりますわと返す。安心した、今はご時勢的にできないが、そのうち紹介してくれるのだろうと返されつつ、母のことも時折は構ってくれと念を押された。

そろそろ言っておかないと思っていたし、大阪から愛知に移住するフラグも立てて、説明する時に筋が通っている。話の筋って論理的かどうかではなくて、当人が納得するかどうか。

今夜はお風呂読書と自炊ができるかな。そうして帰宅。とりあえず蛇口を捻ってみると、やっぱり出が悪い。これ過去の水漏れ事象と同じ症状だから施工業者さんに報告。ここでやっと排水ではない問題の可能性に至ってくれて、明日の夜見に行きますとなった。排水側の問題だったら、毎日同じ生活しているのに突発的に起こるはずが無いと思うのは素人見解なのかもしれない。でもコーティングに問題があったのだったらとっくにもっと頻発しているに違いない。下の階の人も業者さんも僕が何か突発的に水をいっぱい使っていると思っているみたいなのも仕方ない。まずは可能性が高い方から原因を特定してしまうのはとても合理的な推論の方向性だから、特に憤りもない。

で、業者さんからの無茶振り。

今夜も水とお湯は出さないようにして欲しいとのこと。個人的に予測と現実の誤差がないから特になんともない。こういう事態になることを覚悟というか推論はしていたという意味。推論できていないと猛り狂うかもしれない。仕事が終わってゆっくりお風呂入りたいのに、なんで世界は心地良くないのだって。

僕の人生劇場では楽しくなってしまう方向。

よし、昨日行かなかった銭湯に行ける。こんな事態でないとむしろ行けない。こちらも徒歩20分くらいで夜のイレギュラーな散歩を楽しみながら、銭湯初心者である自分も漫喫した。タオルは準備していたが、シャンプーとかは置いてあるものだろうという予測。これは幼少期に良く連れて行ってもらった「かんぽの湯」の経験値っぽい。一回裸になって入ろうと様子見したらないからまた服を着て、番台でそれぞれ40円の使い切りのシャンプー、コンディショナー、ボディソープを買った。

免疫力を高めるというタイトルの本でも週1で銭湯に入るというのがあった。広々とした空間のお風呂に入るというのは確かに精神も弛緩して良い。語弊があるの承知の上だが、ある程度の不潔な空間は大事なのだろうな。入っている人が不潔という意味ではなく、潔白な無菌状態で人間は生きるようにできていないから、綺麗にしようとして意識的に潔白でも体がそれに追いつけないというか。僕がこのご時世で何処でも常備されている消毒を自分の為にはしないのもこういうところ。マスクだって自分の感染予防ではなく、場としての備えみたいな意味でしかない。パンツ履いてないと動揺されるくらいな意味。パンツは見えないから、服が適切か。

この意味の現実的可能性って、完璧に予測と成果を一致させることはできない。

スピリチュアル系の本だったと思うが、意識の隙間に病気がやって来るという話はなるほどなと思った。これを現実的な言葉で翻訳すると、自分の体の状態ときちんとモニタリングして不具合が起きそうだったら調整をかけることが意識という定義なのだろう。

やれやれ。

割とイレギュラーな事態展開だが、僕の気分は良好過ぎて面白い。胃痛はきっと夜ご飯にコンビニ唐揚げという刺激物を食べたから。今晩のコンビニ主菜はすき焼き風のまったりしたのを食べたからきっと大丈夫。

いつもより行動制限されている。お風呂読書できていないし、自炊もできていない。なのに、そこに不具合はない。これって、おそらくそれ自体を目的としていないから、脇道に逸れても問題ということ。習慣付けの本質は習慣付け自体を目的とすることではない。インプットは本を読まなくても世界に無限にある。ご飯は自分が作る料理を食べるのが美味しいだけ。

とりあえず名も知らない下の階の人が本日は水漏れが止まって安眠できるだろうなというのが良かった。こんなこと誰かに言っても、自分の責任が無くなってとか自分主観で捉えられるから話せない。先生なら理解してくれるかもしれない。

僕はまったくもって聖人ではないのだが、現在進行形で足りないものはないなという感じ。

この譲り癖はHSPとかINFPともニュアンスが違うのだろうなと思ってきた。自分の為に相手に譲ってしまってやきもきするのではなく、譲り過ぎるとしんどくなるだけで、自分が譲らないといけないという強迫観念はなかった模様。

ぽえー。

とか、奇声を発しても良い。

この性質に対する先駆けに当たる人物は皆無だったからなかなか迷子した。

松屋の繁忙時間に食べ終わっても居座る人ってどうかしていると思うが、一般的にはどうもしていない。我が最上みたいな世界観なのだろうな。もちろんそういう精神は大事。

観測されると判定は陰キャ寄りになるとしても、僕はもっと人と雑談して大丈夫な気がしてくる。次の迷子領域。

迷子になる好奇心は、自由エネルギー理論だと世界の新規性を減らす情動みたいなのだが、もはや、迷子領域は無限であって予測と現実が一致し続ける世界なんてないと思っているから、とりあえず、どこでも笑って生きるだろうなという次第。

おやすみなさい。

良い夢を。

(これも締め言葉としての癖ではなく、ほんとに毎日祈っている、しんどいなら良い夢くらいはって)