理由付け

 

 

 

やっとこさ。

水と本が帰ってきた。

 

 

朝。

頑張ってミネラルウォーターで髭剃りをする。ジェルを洗い流すのがとても大変。コップも洗えないから水筒も導入して朝のコーヒーを飲む。排水は気にしなくて良いからトイレには行ける。弁当の準備がない分ゆっくり寝られるのだが、隈が濃い。主観的に眠りが浅いということはないのに。家を出ると雨上がりで、なかなかの暖かさ。これはワンチャン光合成ができる。

 

昼。

オリジンで買って公園で食べる気分で外に出たら、朝より冷えているわ風びゅーびゅーだわ、コンディションが悪い。とはいえ、昨日のように松屋でぎゅうぎゅう食べるのは無いから、タルタルエビフライ弁当とシーザーサラダをほうほうの体でいただいた。風で飛ばないように押さえながらいただく弁当もまた乙である。

 

仕事。

もう次に住むところは決まっているから、最短で辞められるのはいつですかって上司に相談した方が良いなという感じ。良い職場だからぶっちみたいなことはしたくないが、お菓子配って1人1人に挨拶して辞めるというのも違う気もする。僕の気分より先に世界が追い立てて来ているし、引き延ばすとここの生活圏(主に住居)で痛い目を見そうな虫の知らせ。経験則的に引き延しは痛い目を見るという予測モデルが無意識で働いている模様。別に働くこと自体に苦はないから、ある意味どこでも働けそう。受け入れられればという前提ありきだが。

 

どうでも良いが、仕事中にも嘲笑でなく普通に笑っている自分が観測されて良いこっちゃとなっている次第。

 

夜。

今日来ると言っていた業者さんから帰って来ても連絡ないなぁと思って居たら、連絡無しでやってきた。かなり好感度高い。帰宅後にすぐ来てくれたし、余計な連絡はなくても良い。仕事振りはよく分からないが、ちゃんと色々説明してくれて、前回の業者さんより断然良かった。前回は僕が悪いことしたという断罪みたいな雰囲気が醸されていたが、今回はそんなことがない。まぁでも、こういう考え方は仕方ない。下の階の人も僕が何か悪いことしたから自分の部屋に水が漏れているという考えた方が世界の因果関係に筋が通っているから、世界観としては安全である。人為的な要因がない例えば経年劣化よりも、上の階の人(僕)が水をまき散らかす性癖に目覚めたと認識できる方が遥かに不安はないはず。少なくとも僕に文句を言って制限させれば収まる現象。「2回目なので」という発言はそういうことなのだろうなという解釈。

 

あと、管理会社の説明もきっとアレなんだろうなと思う。管理の不備より上の階の人の不手際としてヘイトを他に当たるようにしておけば安心だろうし。原因不明でした、とりあえずコーティングしたから様子見して下さいって言われてもきっと不安でしょうがないから、もっと僕にヘイトが寄るように説明したのだと創造される。

 

どこかに悪者が居るという世界観は自分が善人だから楽なのだよな。

 

仕事場の人の言い回しを見ている(聞いていると)、まぁまぁ他責観が凄い。

自責にならないように、「こういうふうになっていますので」とか、「こういうこととのことなので」とか。部署としての見解なのだから、こうです、で良いのに、逃げ道を作りがち。

 

気持ちは分かるが、あんまり個人の人生劇場っぽくなくて好きではない。

日常生活でも理不尽は他責にしていそう。知らんけど。

 

ここはどうでも良くて、不審な事実が判明した。

過去2回の水漏れでの共通項は水の出が悪くなるという現象だったのだが、今日の業者さんに聞いたら、水量を調整するハンドルがきつくなっていたとのこと。気になるのが、「勝手に締まることはない」というフレーズ。前回の業者さんもハンドルを操作して水の出を良くしてくれた。

 

だとすると、自然な推論として「誰かが人為的にハンドルを捻った」ということにならないか。業者さんは職業的経験則で水漏れ=排水の何某かの不備というところに原因を絞っているようだから、ハンドルが締まっている不自然はあんまり重要な問題ではないのだろうが、何も排水上不自然なことをしている僕からすれば違う見解が出てくる。

 

専門的な見識がない人が勝手にハンドルを絞っていて、絞ってしまったことによってどこかで漏れてしまったのではないかって。隣の部屋のハンドルも絞られていたという今日の業者さんの発言からする隣人が何かやっているのかという推論が起こる。もしくは第三者の悪意。これだとしたらピンポイント過ぎて怖や。

 

もちろんこの筋も、水道管に対して門外漢の推論であって、因果関係としてこちらの方が説明が付くのではというだけ。水漏れはほかの要因で、我が家の水の出が悪くなる誰かの人為的操作とは因果関係がない可能性も当然ある。全ての隠れた因果を人間は把握できないから、把握できないことを把握できるようにする好奇心と、因果がなるべく収束するような世界観で現実の誤差を少なくする無意識の調整があるのだろうな。

 

僕としては我が家で水の出が悪くなったら下に水漏れするかもしれないから業者に報告しつつ銭湯に行くという経験則を獲得した昨今の生活。この経験則は数カ月後には不要になるが、どこかで遣えるかもしれない。

 

 

宵。

やれやれ。

 

現実はなかなか変動しているが、もっと変動しているのが中身の世界観。

僕はもともと守るべき物質に準えるような人格を形成していない。侮辱罪とか名誉毀損罪があるから、主観的な人格の価値は毀損されるべくないという価値観があるのかもしれないが、これってどちらとも社会的な当人の人格の毀損を罪としているだけで、主観的なところは問題になっていない。あくまで分類的人格というか文字通り社会の舞台における人格の話。

 

主観的人格は守る、守られるべき存在なのかという命題。

自分を守なきゃいけない存在とするのは、自己に対して過保護過ぎないかという気がする。でも、ここらへんで引っかかっている人はどうも多そう。もちろん最低限肉体は確保しないといけないが、肉体の概念に留まっていないところでそうなっている。

 

ところで、今日の思索迷子。

人の知覚がモデルと結果の誤差をなるべく失くすように動くという話から、人が認識する他人もそうだよなとなった。こういう人だという第1印象が確立されてしまうと、その印象を確証させる証拠集めをするのが関係になって、全然相手の本質に届かない。

 

僕が人に合わせて来た人生劇場はここにあって、なるべく相手の印象にある僕の人格から差分がないように振る舞っていた。酔っぱらった時にその印象は嘘やでと反発するようになるから変な世界になる。

 

他人の印象ってどうあっても客観ではないのだが、他人の評価って天の言葉みたいに自己に印象付けられる。自分はここまでなんだって。自分の言葉重視な人は他人の言葉が煩わしいとなりそうだが、その自分の言葉も自己でオリジナルに構築したものではないのに、天動説みたいな世界になっている。

 

別にこの世界観が悪いとも思わない。

関係している人がそれぞれ天動説で生きているのなら、たまたま一致しているところでしか交信はないのだろうなと思うだけ。

 

今日読んだ記事で、自分が他人に合わせないで良いと分かったから打たないしマスクもしないということで良くなったという話があったのだが、いやいや、それでも社会生活しているじゃん、社会って自己で生きて良い場所でもないようなと思う。自分はそれで生きて良いのは分かるが、だったら社会生活外の場で生きた方がすっきりするのではって。

 

この世界観はあんまり良くない。

他者にきっとストレス感じさせているから。社会の場に置いて他者にストレスをかけるような無邪気が赦されるのは、赤ちゃんとか何某かだけ。誇るべきものでもない。

 

今の世の中、場がバグっているのかな。

カオスは好きなので問題ない。

 

お話タイムです。

(満月さんは久々に酔っていたから寝ているかもしれないが、寝ていたらそれはそれで良き)

 

おやすみなさい。

(エンタメを提供できているのだろうか)

 

良い夢を。