ダレの為の世界

 

 

 

皆さんどんなクリスマスをお過ごしでしょうか。

僕は通常営業です。出勤()の道中の公民館でサンタさんを見かけて、そういえばクリスマスだと思ったくらい無頓着だった。運試し場でも女性店員さんがサンタコスしていた。台が注視しとけとざわついていてくるものだからほとんど目に入らなかった。

 

いつまでサンタを信じていたかという話題が平和な家庭染みていて苦手だという話を読んだ。認識が変わった前後ってそんなに覚えているものなのか。僕はサンタという存在が居るかいないかみたいな認識の更新のことはほとんど残っていなくて、ドラクエ6というプレゼントがピンポイントだったことだけ。他のプレゼントは全然残っていない。おそらく図鑑とかだったのでは。残っていないプレゼントの方が今に影響を与えている可能性もある。

 

人格形成一般なのかは定かではないが、語学形成にもっとも影響を与えているのは家庭でも遺伝でもなく、最初の他人社会だとのこと。安全圏では言葉は拙くても問題ないが、外において疎通が取れないと死活問題だから自由エネルギー理論で言うところのサプライズを無くすように世界をモデル化していくのだろうな。幼少期、自己紹介の時に自分のことを君付けで発話してしまって無茶苦茶笑われた原体験がある。当時の僕としては呼ばれたように呼んだくらいの意味合いでまだ自己と世界が分離していなかったように思える。いや、結局分断されるようなものではないということに至っているから、弁えとしては×でも認識としては当時の方が正しいのかもしれない。

 

あと、これも読んだ話で、たしかにそういう危惧はあったなというところ。

「満たされてしまう(幸せになる)ことによって書かなくなる」問題。でも、幸せが状態であって状況でないとすると、別に僕は足りないものを埋めたり欠けている部分を慰めたりするために書いていないから問題なかった。言葉を残すことで存在確認している訳でも自分の中に残ったことを言葉として物化している訳でもない。書くことをストックしておくという観念もないし。では何の為と問われたら、あえていうなら「念の為」と返す他なさそう。歩くことというか動くことそのものだから記念碑みたいな意味がない。生活の一部というと習慣ぽいからアレだから、基礎的な運動みたいなことで良いのか。努力とも全く違う。僕は努力ができない人であるのは分かっている。

 

観測される自己と、生きている自己は自分の目で見たとて随分と景色が違う。

 

 

 

さておき。

 

今日も今日とて遊んできた。腰が重くて13時まで動かなかった。朝はコンビニでアイスとカルピスソーダと水を買って、昨日買っておいたレトルトカレーを食べる。昼は冷凍ご飯をレンジで解答して卵かけご飯。

 

腰が重いのは何故だろうと状況的に分析してみると、昨日いっぱい呑んだからとなる。自棄酒だともっと悪くなるが、自棄でなくても身体機能は落ちているし。ただ、状態的に分析すると、腰が重いのって状態の変化を無意識が嫌がっているとなる。このサイン大事。ホメオスタシス的には世界観が良くなるかどうかより、弱っていても一定である方が良い。退場する程だとしても、無意識的脳はなるべくさぼりたい。状況的理由があるならなおさらそこに留まる傾向。

 

意識の方では状態が良いから状況が上振れするだろうなというのは分かっていても、動けないのはそういうこと。

 

結果的に状況はやっぱり上振れした。結果論ではある。

まだまだイメージに現実が追い付いていないが、人の状態は状況によって上向きになることはないというは分かってきた。状態が良いから状況が追い付いてくる。状況から状態に至るのは物理的な時系列では自然の因果だけれども、人間の時間の流れはそんな単純な一方通行でもなさげ。

 

僕が運試し場で更新している世界観。

お金が入ってくるのは当たり前ということ。偶然のギャンブル得ても良い。ふと想うと、浪費癖があるのではなくて、お金を貯め込むことに変な罪悪感があった模様。使うことには特に何も感じないのに。世界に場所を取りたくないという世界観がこういうところにまで影響を及ぼしていたらしい。

 

結局はお金を恐怖の対象にしないことにあるみたい。

あくまで、交換エネルギーでしかない仮想の物だから、信仰しなくても良いし、なんならもっと仲良くしていい。

 

この罪悪感めいた神話って、そういう物だと教え込まれてきた空気感あるだけで、そこに固執する必要がない。交換エネルギーを活用できる器の問題。僕は高給取りだった母親が僕を含めた子供に散在して家を建てても状態が一向に更新しなかったことを見てきたが、これは母親の人生劇場であって、僕の劇場ではないから、そのうち余ったら回そうというだけ。

 

そんなに重くないし、もっと楽しく動こうぜ、罪悪感ないし恐怖心を持っている人に集まるよりわてに集まった方が楽しいぜよという感じになったら世界が更新してきている。

 

別にこんなの序の口。

お金は存在証明ではないし、動くための交換エネルギーでしかない。

 

ちょっと思索を挟むが、お金が安心の状況になるって、資本主義がやらかしたことだよな。

資本主義によって世界が上向きになったことがなさそうな歴史。無関係の経済成長で資本主義の功労みたいな世界観ぽいが、経済学的な素養が全くない僕は、これ、貯め込んでおくと未来が安心としているのは、貯め込んでくれないと銀行が廃業になるからという説が浮かんできた。

 

資本主義はもとから自転車操業だというをマルクスさんが分析している。この世界観では労働者はずっと満たされないって。まぁそもそも満たされないといけないという人間観自体が人間の存在にあっていないという説。

 

 

そうそう、そういえばもう1つ。継承していく、残していくという人間観について。

子を成すことが嫌だから木を植えて世界に残すというのは、本能由来だという説の話。人間社会の営みが嫌なのだろうと見受けられつつ、葛藤もあって美味しい記事を書いてくれる人。

 

僕は残すことを目的とする本能は無い。子種は巻き散らかすのではなくひっそり解消するという世界。いや何人かには(省略)。

 

残すことに嫌悪感があるのは史実だが、僕の最新解釈だと、残すことを目的として居なくても存在は結果的に残るものだから、そこにいちいち罪悪感を抱いていると可動域が制限される。僕の文章だけで僕の存在を感知した人にも僕の文章が無くなったとしてもどの程度かは不明としても残る存在はある訳で。

 

意識が忘れたとしても、無意識にはアーカイブとして残る。

 

そんなことまで気にしてせわしく世界を感知して運動制限するほど、人生劇場の舞台は広くない。観測と運動は切り分けないと。

 

 

どうでも良いが、伊坂幸太郎さんって妻がスーパーマンみたいな世界観多いな。

某アニメのようだ。

 

おしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。