人生を食べる

 

 

去年の今日、歌の人に倣って近所の公園でスパークリングワインとケーキを食べていた。この公園はのちに満月さんによって「ぼっち公園」と名付けられることになる。歌の人は今年もやっているのだろうか。

 

今宵も同じことをするつもりだったのだが、世界線がちょっとずれたのか、ケーキは数日前にもう食べたから、ワインだけにした。天使のアスティという名の甘い炭酸ワインをビールのチェイサーで聞し召す。「天使が幸せを届けます」との天使の羽をモチーフにした紙が巻いてあった。幸せは足りているが美味しそうだったから買ってみると、とてもうまい。

 

僕は幸せという言葉を使うのを避けていた。なんだかどう使っても幸せそうではないというか。でも、自分の語用であれば特に問題なさそうだし、こっちの意味で使っていこう。

 

 

さておき。

 

昨日の最後に書いていた世界線の移動の検証に動いてみた日。

 

朝はやっと回せた洗濯機の洗い上がりを待ちながら、鍋の残りつゆのうどんと納豆かけご飯を食べつつ、動画を見ながらまったり。鏡を見たら調子が良さそうな良い貌をしたおっさんが居たから運試しに出かけることにする。ここのところ悪い顔をしていることはないのだが、より上向きっぽいという意味。

 

 

パチンカス的な描写は知っている人なら面白いだろうが、たぶん文章界にはあまり居ない気がするから省略。脳汁がにゅるにゅるする感じ。でも、個人的には自然の中でぼーっと散歩するのと刺激量は特に変わらない気もする。

 

スマホ読書が捗る。距離感近いから隣の人が眺めているスマホの画面も見えるのだが、今日隣に座った挙動不審のきょろきょろする人はつぶやき場を開いていた。つぶやき場のデメリットって、眺めようとする情報を絞れないところ。芋ずる式に追えると言えば聞こえはいいけれど、見ているというよりも見させられている感じがある。

 

とりあえずスピリチュアル系の本を2冊読んでみた。お金の話と宇宙につながる話と。別に眉唾とも真実とも思わず読んでいるから参考にすべきところは採り入れる。要は自分が気持ち良い感じになれば世界は上手く回るという話で、たしかに一般常識とか固定観念の社会人として育っていると、この境地はとても難しい。お金の話はお金の話なのにお金に囚われないように思考すると集まって来るという、一見矛盾している。心配事の9割は起こらないの亜種っぽい。思考を上向きに偏らせるって、難しいだろうな。僕の思考はほとんど現実にリソースを割いてないからちょっとやってみる。

 

宇宙と繋がる話は、宇宙というと壮大になってくるが、おそらく自分の本質みたいな意味。怒ってしまう自分を客観的に眺めていくと収まりますよみたいなこちらの方が実用性はありそう。こちらも人生劇場はより楽しく生きるためのものだと書いている。世界は必然だから、現れる人間関係も必然だって。

 

イメージとか思考が世界の在り様を決めているという世界観は誰も悪者にしなくて済むから好き。このメガネで過去をもう一回眺めたら、皆出逢ってくれてありがたやになる。

 

しかし、一向に当たらない。

けども、なんだかうきうきしている自分が観測される。この辺りではスピリチュアルから離れて、量子コンピュータの話を読んでいた。現実的に観測される因果とは別の法則で物理法則が回っているという世界を受け入れることはかのアインシュタインでさえ難しかったらしいが、今や学者さんの中では常識なのだろうなとなると、これが一般常識になる世界も近いのかもしれない。

 

うきうきそわそわに任せてもうちょっと打とうかとなった時に満を持して当たりがやってきて、なかなか面白いことになって終了時間もちょうど良く終わる。

 

スピリチュアル界隈が言うところの、世界線の移動。

認識できるところにしか移動できないというか、どちらでも当たり前だが、より面白そうな当たり前に飛び移っても良いという感じの挙動があった。ビギナーズラックではないもの。たまたまそうなるみたいな偶然を意志していない。ずっと意識してみた。脳が稼働する。先読みは意識が途切れた隙間にやってくるのも真理。

 

まぁ運試しは何かの準備みたいな感じ。人生劇場って準備と実践が混在しているからややこしい。上向きを当たり前にして良いという状態は、少なくとも僕が関係してきた人達からは得られなかった知見というか感覚。スピリチュアル系の本も登場人物が我だけで、パートナー関係であろうと他人は添え物というか現象として語られるから、僕はもっと巻き込んでも当たり前としたい。もっと動ける。

 

この意味で、お金は僕の運動の為にはもっとあっても良いだろうな。

体の移動としての旅行も楽しいが、もっと中の移動のところ。気になった本を全部買ってしまえる世界線に移動しても良い。本(文字)はエンタメではなく散歩だから、ある意味旅行よりも移動域が広い。人のナカにも過去にも旅行できるってツールとして有能過ぎる。

 

 

やれやれ。

 

そういえば、幸せの語用の細かい説明。

この言葉の定義は難しい。日本語ってどの言葉も難しいけど。

 

 

僕がこの言葉を使うのが嫌だったのは、これが状況に当てられる言葉だったから。

結婚式とか子を成しているとかのお幸せにみたいなやつ。これだとある特定の社会(現在日本)において、幸せ的な状況な人でないと幸せではないということになるし、僕が幸せであると言ったところで、定義外になって先生に×される。

 

でも、幸せには別のニュアンスがある。「幸せそうな顔をして寝ている」は一般語用だが、これって状況を指している訳ではない。安眠が状況であるとしても、当人は安眠を認識していないし、外から見たときのこの相貌は状態でしかない。

 

そう、幸せっていまの状態を指して使われるべき言葉。

僕は今宵運試しに負けてきたとしても、同じく人生劇場を楽しんでいるからどちらにせよ幸せ。より楽しいところに移って良い。

 

状況と状態の違いを無垢な子供に聞かれたら、語意達者な大人陣はどう応えるだろう。

大人になって分かったこと。大人はそれほど何にも分かっていない、分かった気がしているだけ。もちろん当人の人生劇場においてサプライズをどこまでにするかに限度があることは分かる。ただ、その世界観で他人は既定されなくて良い。

 

状況は外から観測できる前後の因果があって説明が付く。状態も法則に従っているようだが、説明が付けられるかは定かではない。自分の気分の状態って、閾値を越えば喜怒哀楽とかで説明できるが、閾値を越えずに意識に観測されない状態の方が当人にとっての常態なのに、ここすら認識できないのが自己。僕はここを弁えることに気付いたから、他人が類型化できないということになった。別に共通項なんてなくて良い。

 

ついでにちょっとマッチョになった。

満月さんになんとかホルモンが働いているらしい。

 

 

 

説明って何の為にあるのだろうな。

 

ホルモンによるマッチョも状況説明できないし、個人的に幸せになったら良い昨夜さんとなのだ交信してみたり、はてなブログの方でも幸せになったら良いなという何某さんにお疲れさまでしたってコメントしたらかえって来たり、状況として因果の説明ができない。

 

お二方とも世界の外に自分以外の人間は無さそうなのにありがとうございます。

文句も受付けますのでどうぞウェルカム。

 

これができるようになったのは文明の利器の効用だがもっと前からできていたことのような。そもそも世界って原因と結果の辻褄では成り立っていない。

 

ほんとにそうだとしたら人間はもっと完成している。

 

そんなことより僕は満月さんを今後の現実生活の中でどれだけ幸せな状態を常態にすることを目論んでいる。

 

(ホルモン理論だと、満月さんは僕の存在をもってもっと稼働できる物理的な身体になるはずだが、僕の現実感が足りていないのだろうか、何でも良いけど)

 

満月さんのキュンポイントは、通話中に「お風呂に入って良いですか」と聞いたら、恋人さんの行動を制限する恋人は居ないと言ってくれたこと。もはや淋しくなくってきてくれている。

 

変な話、状況説明ってなんとでもなる。

物理現象の逆算からでもいいし、自己を説明することに言葉を当てないといけないのも、状況を注視している。何が見えるか自体が当人の人生劇場だというのが素朴な劇場観なのだのだが、たぶん誰にも通じない。

 

この世界観だと、僕の文章体に逢えた人はまぁまぁラッキーなのではという感。

罪悪感なく読めるというか、まずは貴方を読むべきというか。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。

 

本日もごちそうさまでした。