ならずもの

 

 

 

本日はごろごろ。

時間を無駄にしている気は全くない。無駄な時間はない、というか、時間自体が現実ではない。

 

 

さておき。

 

ありあまる富(食材)を料理に変換して肉体にお裾分けしないといけない。朝はお雑煮の気分ではなく、お雑炊になった。刻む前の紅ショウガのお漬物を入れてみたら、赤い雑炊が生まれた。味付けは塩昆布とほんだしのみ。美味しい。昼ご飯は省略。

 

動画を見ながらごろごろゲームをしたり、漫画を読んだり。

ぼーっとしていると、色々思考が出てくるのだが、仲良しになっているのか憂慮の事柄は浮かばない。この話昨日の終盤に書いた気もするが、スピリチュアル系で良く出てくるハイヤーセルフさんはほとんど傍観しているらしい。自己否定の埃感覚が取っ払われたのも何か凄いことが起こった訳でもないし。ふと、これは演技なのだなと気づいただけ。言語としての気付きでもないから、言葉はてきとーに当てた。そういう方向に向かっても良いし、向かわなくてもいい。

 

出てくる思考は今後の改善策でもなく、ほとんどが自分に無関係のこと。

自我とはグーグルマップの位置情報における矢印みたいなものだというをどこかで読んだが、マッピングした意識上にしか現れてこないのが自己。ようは「いま」にしか存在しない。

 

確固したものであるとしていた自己が実際はこんなに儚いのかということもどうでも良くなっている。

 

夜ご飯。

 

水圧の関係でお風呂とシンクの蛇口を同時に開けるとお風呂が水になってしまう不便さ。一昔前(1ヶ月前とか)の僕ならこれにストレスを感じていたはずだが、いまは対応すればええなという感じ。環境には馴れてしまえるのが人間。

 

満月さん御用達のレンチン茶碗蒸しを作ってみる。鶏胸肉とスナップエンドウと豆苗。短い時間でチン、チン(繋げるのがはばかられたから読点を挟む)しながら、様子を見るだけ。卵と出汁と水を入れたらいいというざっくりレシピでここまでちゃんと茶碗蒸しの味にさせる僕もなかなかだが、こんなに簡単にできて良いのかという感。ちゃんと名前が付いた料理の味。常識が覆る。

 

 

そういえば、通話しながら買い出しの帰りの雲間の満月、綺麗だったな。

ぼーっと見上げて続けていると不審者認定されるからそろそろ帰りますって言ったら、満月さんから、貴方はもともと不審者でしょうと言われる。たしかにそうだった。

 

お風呂読書。入浴剤が切れていたから、伯方の塩でお清め。不審者傾向が働いて薬効がありそうだという当て勘でクレイジーソルトを少々追加してみる。なんだかぽかぽかした。これがプラシーボ効果というもの。薬学界というか製薬業界がプラシーボ効果を忌避しているというのもどこかで読んだような。そりゃそうだ。客観的に効果があるというのが薬剤の存在意義だし、主観が薬効を生み出せるという証拠は都合が悪かろう。百薬の長以外の薬は常備していないからこんなことを言えるだけの話。

 

 

無知の塔の小説界が慌ただしい。

三島由紀夫さんの「純白の夜」が終わってしまった。シェイクスピアさんの演劇に似ているような、物語というより演劇感がある。次はそろそろモーパッサンの「女の一生」を読んでみようか。僕がこれを読んだ感想を読んでみたいという稀有な人が居たのだが、その人の文章が世界(主に某メンタリスト)に対してヘイトが強めだったから切ってしまったのだが、「女の一生」とセットで残る人ではある。

 

視界の範疇の世界の不具合を正義でもってヘイトするというのはもう時代遅れなのかもな。中世ヨーロッパの魔女と認定された人に石を投げる所作から進歩していない。正しくあることで自分が確証されるという宗教めいた感覚でもあるけれど、気分が悪くなる文章をわざわざ読むのは自傷行為に当たる。自己ヘイトしている文章は自分に向き合っているし、世界のせいにしていないから気分は悪くならない。ヘイトでもなんでも結局は全部自分に還元される話。

 

こういう道徳観を最初に教えてくれていればという感じだが、上の世代は今より縛りが強かっただろうから仕方ない。というか、人間に根差している習性みたいなものなのかも。個より集団だし、個もあくまで集団の中におけるそれ、みたいな。別に良し悪しでもないが、含まれない人を蔑ろにするのはちと違うような気がする。

 

どうでも良いが、運試し場の喫煙所で、2名でお願いしますって張り紙があるのに3人目が入ってきて、うげーとなったシーンが出てきた。服装も普通だし髭も整っているし言葉が読めなさそうには見受けられないのだが、しれっとふてぶてしく吸っている。もう1人の人はさくっとで出て行って追い出されていた。世界に他人が存在しない人なのかもしれない。

 

新幹線でもそういうことがあった。今の東海道新幹線は喫煙スペースは1人ずつ吸うことになっているが、ずかずか2人目が入っていった。違いは、外国圏の人っぽくておそらく張り文字読めないし、スペース自体は2人分あるから入れるのだろうなとなったのだろうなという解釈。

 

そうなると運試し場の人も読めない人だったのかもしれないという解釈が出てくる。

 

世界はそういうもの。

他人は自分と同じ認識を持ちえないし、万全であるとも限らない。その思考錯誤を括るために社会という仮想の共通空間を創り出した。社会空間は個別の思慮をしなくて良いという意味で便利だし、だいたい安全だし、よき発明。

 

 

やれやれ。

 

これは書いてないと思う。

伊坂さんの小説で、AIの話が出てくる。

 

「情報を食べて成長する怪物」という表現。たしかにアルゴリズム(理由)を追えなくなる危惧はあるのかもしれない。ただ、このフレーズを読んだとき、これってまさに人間に対する表現ではとも想う。アルゴリズムはプライバシーで解明できないし、なんなら当人にとっても定かでない。

 

おなじ存在なのにAIは駄目で人間なら大丈夫というのは、きっと社会的な感覚なのだろうな。自動運転が駄目なのは、人間が運転していれば自分の命を守るために無茶はしないという社会的な信用があるからだろうなという想像。無茶はしなくても体調不良とか他のことを考えていてという不都合の可能性の方が高いような気もするのだが、そこは度外視されていそう。AIなら一通の標識を見落とすなんてしないように想うのだが、人間が上位なのだろうな。

 

 

人間が上位なのは認める。ただ、この上位性は、物理的な条件関係の外にも動けるという習性とか遺伝からの離脱可能性であって、他種を下に見られることではない。スピリチュアル系の本で、周波数上がってきたら他人を馬鹿にすることができなくなるというのを読んだが、読む前にそうなっていた。一昔前の僕はもっと皮肉屋だった気がするのだが、どこに行ったのか。

 

もう1つなんかあったと書いているうちに戻ってきた。

 

数学の本も苦手というハードル下げて読んでいる。数式でいちいちなんだかするところは流しながらイメージの部分だけ。集合論が空間でそれまでの幾何が時間だというイメージはなるほどとなる。カントさんが人の認識の前提には時空があるというのと繋がる。こういう認識論が社会に浸透しているから、時間と空間の中でしか世界を感得できないと成っているのが人間界なのか。

 

たしかに、時間も空間も待ち合わせに遅れないという意味では大事。これを蔑ろにすると他人から自分を大事にされてないと認定されるし、されても良いからやっているのかとなりうる。

 

僕はこの辺りは問題なくこなせるのだが、別にだからといって、ここで生きている訳でもない。時間軸で言っても書き変えがもっとも簡単なのは未来ではなくて過去だとしているし、空間もいつでも目新しいのが本質なのではという感じだし。

 

理由とか根拠の概念についてもゆっくり思索してみようかなという老後感。

自分の動きになんで理由が要るのだろう。いや、説明する為には理由という言語がないと他者が混乱するから、守護霊から啓示とかの方がまだマシなのかもしれない。虫の知らせという慣用句もあるし。なんで知らせるのが虫なのかというと、虫は磁気に敏感そうなイメージがあるから、脳のシナプスの電位の周波数に合わせて変な動きをするのかもしれない。

 

なんだか全然何も語ってない気がしているのに3000文字か。

もともと人類は遊動だったという話とかもあるし、ごろごろしていても書くことは尽きない。

 

ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。