ならしの
繁忙期を過ぎた仕事は本日も暇。「暇と退屈の倫理学」で暇が退屈に移行していくという話があるが、僕は暇に退屈を感じない。一昔前は途方もない膨大な余生をどう崩していくかみたいなことを考えていた気がする。いまは本を読んでのほほん遊んで過ごしてしていたらいつの間にか終わるのだろうなという感じ。
暇に任せて、左手で1人しりとりを書く。1文字だけ取るのはつまらないから、2文字にしてみる。最後が「ん」で終わったとしても終わらない。意外と続くものだ。個人的にはようい(用意)→ういてんぺん(有為転変)の流れが好き。平行に続けていくのではなく斜めに書いていたのだが、それが表現できるのかは微妙。
ていあん
あんしん
しんぱいきのう
のうりつ
りつりょうせいど
みたいな。もう少し進んだら漢字1文字しりとりも面白いかもしれない。案外自分の中に、も語彙は結構ある模様。そもそもしりとりの公式ルールって名詞でないといけないのだっけ。
さておき。
一回も目覚めずに7時間くらい寝ていた。だいたいどんなに飲んだとしても5時間で起きるはずだがどうしたことか。ホットはちみつラテを飲む。ほっとしたのもつかの間、出発する直前にシャツのアイロンがけを忘れていたことが判明。急いでかけて小走り区間が増えただけで事なきを得る。真冬なのに職場に着くと若干汗ばんでいるが、夏場に走って汗だくでも気付かれないから問題はない。マスク社会は匂いもソーシャルディスタンスにした。
問題は朝にアイロンがけをすると終わった後にちゃんとコンセントを抜いたのかが不鮮明になるところ。無意識なのか性向なのか強迫観念は出てくる質だから、気にしようとすればいくらでも気になる。一応映像記録を記憶で撮った限りちゃんと抜いたシーンがあるのだが、こんなの当てにはならない。都合良く良いシーンが流用されているのかもしれないし。まぁ、映像記憶は信頼度が上がっているから問題ないとする。気になったところで意味がないところに脳のリソースを割いても仕方ないと割り切る。
仕事。仕事はこなしていると思うのだが、あんまり仕事をしている気がしなくなっている。業績が上がるような場ではなく受動的にやってくる案件をさばいていく所だから、目に見える成果はない。これでお給料もらうのだし、無理矢理自分が仕事したという実感になる何かの指標を創るしかないのか。あんまりそういうところで生きてないということに気付いただけで、特に仕事の仕方が変った訳でもない。
先生の発言。
仕事の終わり際、新人さん達が帰った後に、疲れたとぼやいていた。もちろん矛先は新人さんではなく面倒な案件の偏り。ただ、その先の発言が脳のキャパを省エネしていくべき、人の脳の容量はみんな一緒だという話と繋げると、実は矛先が微妙に違うのではないかとの読み味になってくる。
僕は聞くより考える派だが、これもほんとはリソースの無駄遣い。
聞いてすぐ終わる案件を試行錯誤するから、社会時間をオーバーすると叱られ案件になる。上司の時間は奪わないが、失敗するリスクもあるし、駒としての動きができない可能性もあるし。前の上司はそこを細かく指示してきた。お手洗いで席に立つタイミングとかも言われたような。今は定着しているしその上司とも離れたし、身に付いているはず。
新人さんとかお洒落な先輩とのやり取りが聞こえてきたとき、その問いが果たして仕事の成果に結びついているのですかというのを問題としているのだが、そこの感覚がないらしくてやきもきしているように見える。仕事とはなんぞやって哲学みたいだけど、経済上の効率性以上の何ものでもない。
新人さんに注視すると、仕事の回答以上にだったらこの場合はどうなのですかという余剰を聞いている。たしかにこれが学校の教室だとか大学の講義室であれば熱心な生徒であって優秀かもしれない。先生も細々と講義をするのだが、このやり取りのどれくらいが新人さんに残るのだろうという話。先生も何回も聞けば良いというスタンスだが、具体的な事例の回答を越えた概念(感覚)を感得できるのか。
ワーキングメモリに情報が入っていると自分が分かっている気分になるし、鮮明なうちに色々聞いておくという感じも理解できるが、情報が増えれば増えるほどほんとに残すべきポイントがぼやけるような。覚えて行けば話はすぐ済むという仕事でもないのに、思考を放棄して知識でなんとかなるとしているのに付き合う先生が無駄遣いされている。
良いとか悪いとかの話でもない。
ワーキングメモリに在る情報が知識だとしたら、そりゃあしんどくなるなというだけ。
僕が先生の立場だったら余剰は伝えない気がすると想像した。そのうち分かってくるからとりあえず、気になるところがあっても置いておこうかって。それと、まずは相手がどこまで考えているのかを聞いてみるとか。先生は人の進捗を加味しないところがある。
まぁ、そんな世界線は無い。
ともあれ。
やれやれ。
読み味と言えば、noteの昨夜さんが名前を変えていて、誰だという記事が上がってきたのだが、読んでいるうちに昨夜さんぽいなとなってくる。過去記事を見てやっぱり。この人のナカが男性なのか女性なのかは判別しないが、文章が面白いからどうでも良い。これはどうせ文章界のことだからということでもなく、仮に現実的に世界線が一致して邂逅することがあったとして、美人に貢いでいる記事がフィクションだったとなっても変わらない。
もっと笑えるパートナーさんのがとかやきもきしながら読んでいましたわというだけ。
このどうでも良さは現実界にも適用される。
流行り廃りはよく分からないけども、服装って男性は定型的で女性は男性的と女性的と選べるのだなって。個人的にロングスカートのフォルムが好きだが、動きやすさなのか、ほとんどの職場の女性はパンツスタイル。お洒落な先輩も着たところを見たことがない。
いや、別に性的な目でしかんしている訳でもない。なんならロングスカートの可動性を自分で履いて検証してみたいくらいな感じ。スカートに女性性があるから履くのが忌避されているという説が浮かんだのだが、どうなのだろう。
仕事場は男性性が支配している場だから戦闘服としてのパンツスタイルなのか?
女性のシンボルとして観られたところで、この職場に特に優遇はなさげだが、どうなのだろう。
足を公然と剥き出しにできるのも特権なのか、そういう設定にしたおじさんの目の保養か分からないが、フォルムを出すこととそれを見られることがしかんになるという論理も分からない。男が出したら除毛していても公園以外はだいたい不潔だろうし。
ここで終わると単なるおじさんになりそうだからもう少し続けたいところ。
自己感と服装が一致するというのは、あくまで外から来ている気がする。
自分に馴染む服を着ることは大事だが、それより前に自分自身に馴染むことの方が。
言葉も装いとしてみたら、もう少し解明されそうだけど今日はここまで。
おやすみなさい。
良い夢を。