進行方向
飲みに行ってきた。しかしこれから(22:13)書く。これは文章依存症と呼ばれるか向上心の塊と呼ばれるか微妙なところ。肉(焼き鳥)をしこたま食べて胃腸がびっくりしているため、草(ベビーリーフ、白菜のゆかり浅漬け)で休めながら。
元気なことだ。
さて。
思索のところまで書きたいから早足で。
仕事。何か社会時間と調律が合ってない気がする。本日が何曜日なのかが定かではない。もちろん仕事で使う分には卓上カレンダーを見れば分かるから問題ない。社会時間より自己時間の方が大事。
なんだか先生界隈が騒がしかったような。
お昼は公園で食べる。
寒いけどもまだいける。日向ぼっことはとぽっぽ。
仕事が終わった後に1時間程空いているから何しようと思っていたら、たまたま残業が半分埋めてくれた。都合が良い。
飲み会は、上司の上司と2人きりだった。全然緊張しない。1軒目に行こうとした居酒屋は火曜日なのにサラリーマンで満員御礼。あれ、本日花金だっけ?
結局退職が確定したが、時期は微妙に未定。終始和やかな感じだったが、若干惜しまれている感。まぁ条件云々ではなく状況の問題だし、この仕事自体に不満はないと言われたら、交渉しようにも切れるカードがないのも仕方ない。配偶者・子供が社会の状況における最強カードだが、そこまで行かなくてもパートナーというカードは世の中から安心されるし、交渉事としても相手が譲ってくれる強めのカードだなぁと思った。
個人的には独り身の人とパートナーが居る人の寂しさの程度は当人に拠るものであって状況には左右されないと思っているが、得体が知れている安心感が推定されうるのは分かる。誰かと生活できているという証拠が、人格としてまとも、いやもっとやんわり言えば幸せに生きているという表現になる。
なるほど、こういった意味で人はマッチングを求めるのか。(?)
mixiで縁がありました(正直)と言ったら、「いつの時代の人だ」と言われた。いやいや、紹介制でなくなったあの場所は居心地が良いですよ、とは言わない。
そういえば、前の飲み会で質悪いと表現された僕の酔い具合が解明された。曰く、何か言いたげだが、発言しそうになっても結局発言をしないという所作を多発していて、年下上司が硯は怒っているのではないかと心配になっていたらしい。
どういう話が巻き起こっていたかも覚えていないが、おそらくここで文章を書いているような人格になっていたのだと思われる。もやもやは良いけど愚痴は嫌だ。お酒がまずくなる。
これはともかく、自分の文章脳の人格で思索していることがほとんどの人にとって無意味で、何故そんなことを考えているか分からないと想われるとしているから、もっとも自分の本質に近いここの自分では人と接することは無理だろうなとなっていたから、突拍子もないことを言って場の流れを乱すのを我慢していたのだろうな。
そうして帰り道で溝に落ちて左の耳の上にしばらく残る痣を付けることになり、余計に心配されることになる。
今後の交友関係はここの文章脳の自分で居て良い人と縁があればという感じ。通用できる人が居れば、一緒に人生劇場で遊べると想っている。社会的条件とか出自とか事務情報から人を推定しない人。推定しても良いが認識を更新していける人。特に自己認識かな。面白いことをお互い持ち寄って、より面白いことが産まれるみたいな。
ともあれ。
調子出てきた。
あぁ、今日のお風呂読書は、お風呂が溜まるのを待ってられないからカットしてシャワーで済ませた。本を読んでなくても本のことを考えることはできる。
これも「暇と退屈の倫理学」なのだが、資本主義の初期は労働環境が劣悪で労働者は働かせれば働かせるだけ生産効率が上がっていった。しかし労働者は部品ではなく生物で無理をさせるとガタが来る。そこで労働環境を改善させるようにしたのがフォードだった。労働者が使いやすいようにベルトコンベアを導入して労働時間も少なくして。
これが良いことだとするも少し違うとという視点を提供してくれる本。あくまでフォードは生産性を向上する為には労働者に無理をさせない方が良いという経営判断をしたというだけ。そりゃそうだ、私人は生きているだけで価値があるが、法人は利益を生まないと存在意義が失われる。証左として、フォードは労働者の仕事時間外の生活が仕事に支障がないことをしているかって監視・管理したのだとか。
余暇(レジャー)は仕事の準備時間であって、禁酒法もここに根差しているという見解にはゾクっとした。これって、ここ何年かの渦中で国家が行った施策にも通じている。プライベートは公共の為に制限されるべくみたいな。
これで言ったら、家族制度はもともとあったにしろ、生産性のために健康を管理する単位として再構成された、は言い過ぎか。いや、女性が料理できないといけないという社会通念は微妙に重なっているような。
まぁ料理に関しては、自分が欲するような料理を提供できる腕があるにあるに越したことはないとは想う。ジェンダーとかでもなく、単に自己の体のメンテナンスとして。会社でも凄く地位が高そうな人が普通に毎日カップラーメンを食べている。カップ麺うまい、分かる。ただ、日常ご飯に組み込むには栄養が偏っているような。
できるかどうかではなく、できなくてはいけないという社会通念の思索は面白そう。
人って自分ができるようになったことは他人に対してもハードル低くなるか高邁になるかで、どうしたら相手ができるようになるかは意識されない。
毎日書いていたら考え事に支配されなくなるとは言えないし、考え事もカントさんの語用における趣味の領域。
本日の飲み会でも趣味を聞かれたのだが、ここでいう「趣味」の定義って、余暇をどうやって潰しているかという意味合いだから、ぽえーっとしているとは答えれないし、散歩でもはてなだろうし、無難に本を読んでいると答えた。上司の上司も小説を読んでいて一瞬盛り上がる。出てきた本が東野圭吾で、すみません、「白夜行」以来読んでないですと返すしかない。
趣味のもともとの定義は余暇をどう過ごしているかではなく、世界の趣をどう味わっているかだから、別に部屋に引きこもって動画をみたりゲームしたりしていても良い気がする。趣味を余暇にしたのは、これも資本主義の陰謀というか雰囲気なのかという感じもあるが、特に出典はない。
社員にするという話もあったみたいだが、僕が習得している法律系と、職場のIT系では領域が違うから僕にとって何が幸せかという談義もあったらしい。
個人的には1からは好きな領域だし、IT系の知識とされるところをやっていくのも問題はなかったが、僕の幸せは満月さんとの生活っぽくて状況もそうなっているから、あえて何も言わなかった。
法律談義まではいけなかったかー。
ここまで。
おやすみなさい。
一時間ちょいか。
おやすみなさい。