なかんずく

 

 

更新が多めの人の日記を読むのも楽しい。ここは出来事より思索が多めだから毎日徒然草という感じか。まぁ出来事と思索(思想)は相関しているし、毎晩読んでいる本群も出来事ではある。体が移動しなくても出来事はいくらでもあるということ。

 

 

さておき。

 

引っ越しが始まった満月さんと朝の挨拶をしつつ、記事やら漫画を読む。常備しているアイスコーヒーを昨日買い忘れたものだから、朝のお供は昨晩帰り道の自販機で買ったホットのモーニングショットを一晩室温で冷やして牛乳を足した即席カフェオレ。缶コーヒーはぐびぐび飲めて良き。

 

歩き縛りをやめるとまだまだ遅く出発できそう。急いで止むを得ないから走るなんて無茶はせずに、余裕をもって走るという発想はどこから来たのか分からない。快適。

 

仕事。

 

概ね暇。左手で文字を書く練習。この発想も右肩を壊してサウスポーに転向する無茶ではなく、せっかく両手が健在なのにメインの手を決めるってもったいないなという意味が分からないところから。お手本となる右手の文字も全然上手くないしそもそも手書きの文字を書く機会が全然ない。それでもどっちも使えた方がいいだろうなというだけ。

 

違和感。仕事量が減るように設定が変わっていて、あれ、これ仲間外れかと感じる。何かやらかしたか。いや、やらかしたとしたら直接言うのがこの職場の職風なはず、とか一瞬ぐるぐるする。まぁええか、仕事少なくて良いとはならない。こういう排除のされ方は嫌だ。開き直り自分から聞く。先生曰く、自分は設定を変えていないとのこと。そうしていじってくれる気配もない。いま想うと微妙に態度が変だった気がするがどういうアレなのだろう。何か思い当たる節があったのか?

 

年下上司に確認すると、想像した意図ある変更ではなく、月初めに変更したのを戻した時に漏れていただけだった。ちなみに漏れていたのは僕の外に同期もだったが、同期は全く気付いていない様子だった。いや、こんなの見えるだろうと思いつつ、でも、これって自分の世界で仕事していたらすぐには気付かないかもしれない。他より仕事量減っているなって、他の人の仕事も見ていないとできない。

 

この叙述で僕が同期より優れているみたいに読み取られると困るし、その分損しているとも思っていない。余計なものが見えてしまうという精神傾向はなんだったっけ、という感じで、意味がない情報に無駄にアンテナが張られているというだけの話。

 

この雑多な情報にいちいち意味付けをしていくとキャパオーバーになるのは確か。あれ、駅ビルの外に建っている丸時計が今日から工事中だわという情報とか、外界をいちいち探索しようとしていなくても見えてくる。

 

この精神傾向の人は記憶が薄いらしいが、違和感とか変化って脳が蓄積している情報としての記憶との照合だから気付くためには今を観察できるだけでは足りない。

 

どうでも良いが、恋愛記事が流れてくることが多くなった。

おすすめ記事は語句だけではなく何か独自のアルゴリズムがありそうな。

 

婚活やら芸能人がしたら叩かれるようなタブー的邂逅やら。

個人的には好きにしたら良いというスタンスだが、このスタンスが僕もそうであると見られるのは困りもの。読み物としては良いが、演じる人生劇場とは違う。

 

僕はパートナーに条件付けをしたことがない(いや、浮気されたときは制限した気がする、苦しかった)から、婚活サイトで外的条件から対象を絞り込みあうという出逢い方が分からない。いやこの条件付けも学生時代くらいまではやったことがあるか。とにかく社会的に生活圏にある人みたいな。タブーの方は、パートナーって1人で充分ちゃうかという次第。これももちろん倫理的な意味合いは皆無で、下半身より上半身の方が上位だし、1人でも楽しくて飢えていないし、なりゆき任せで良いという感じだから。

 

そのなりゆきでたまたまの満月さん。

何かしてくれるとかしたいとか想うことの外に、大丈夫だろうなという感じがする。

 

分析するではないが、良い人の話をするとき、人はその人と居て自分がどれだけ気持ち良いのかを語る。そりゃあ確かに人生劇場の主役は自分だし、相手が自分と居る心地良さは言葉くらいしか証拠がないから語れないのも分かる。まぁ、「気が合う」という現象を言葉にするのは難しいから仕方ないのか。

 

満月さんは僕と居るとよく、くっしゃとした顔で笑ってくれるが、それを言ったら僕がそういう顔で笑っているらしい。

 

そういうこと。日々笑える人と過ごすべし。

 

 

ともあれ。

 

細々したことを思索していたのだが、なんだっけ。

 

たぶん小学校の同級生と再会しても変わってないなって言われそう。

これは記憶補正と現実の相手が想像値の振れ幅に収まっていることによる。

 

自分が歳を取ったなぁと全然想えない。

歳って経年だが、これはあくまで社会時間の話であって個人時間ではない。

 

思想が社会寄りになるという意味合いでの時間経過も社会時間だし、昔はもっと自由だったみたいな郷愁も同じ。

 

個人時間は枯れていく肉体と同期しなくても良い。

枯れる自然の流れに対抗できる意志を持っているのが人間だし。

 

刑法上の因果関係を読んだところからの発想。物理的な因果ではなく常識的な自然の流れが因果関係なのだが、人間が介入することで覆ることがあるという話。人間は自然的・社会的な条件関係を越えてしまえるから、どこまでを犯罪とするかの探求が尽きない。

 

もう1つ。

 

無料で聖書を学習できるという看板がお弁当を食べる公園に置いてあった。

聖書は無料公開されているし、学習とはと気になりつつスルーをしたシーンがあったからかは知らないが、日本人の宗教観について思いつく。

 

3大宗教の神様って、何か救済してくれる感がある。よすがの為になにかをするべきみたいな話。

 

日本の宗教観の信じるの原初って古事記も含めて自然の移ろいだから、信じたところで救ってくれるわけでもないし、偉大さをありがたいと想うだけだから、クリスマスもお正月も混同できるのだろうなって。都合が悪くなったところで、本当の意味で神様から罰が当たったとはしない。

 

こんなのほほんとしている世界観の日本人に修行して神様が善いことをしてくれるようになるみたいな宗教は根差さないのは当たり前だろうな。

 

(個々の宗教の原典はもう一回読まないとなと想う)

 

 

はい、ここまで。

 

おやすめなさい。

 

良い夢を。