優しくない

 

 

 

軽いような重いような少々元気がないような感じの時の方が仕事をこなせる。

これって余計な「個」が出てこないからだろうなとの仮説。職業選択の自由は精神の自由を保障しているのは確かだが、ここでいう個はあくまで社会の中の個。まぁ社会の中の個が確立されていたら問題ない気もする。いや、だったら成功者の自己退場はありえないか。

 

割と暗がりに棲息している気がする今日この頃。メタバースの世界で「夢」という単語が出てきて、キラキラさに眩暈がする。寝ている最中に見るものであって白昼で見るものではないという気がする。僕は日向でも棲息できるが、キラキラワードはどうも合わない。夢とか希望とか努力とか。そうやって括るものではなくて、もっと個別的な言葉に変換されるものだと思うだけで、中身を否定している訳でもない。キラキラしてなくても捨てたものではないだけ。

 

 

暗がりには暗がりの思索がある。

 

本日はトイレで座っているときに、人間って個になればなるほど退場に向かわざるを得ないよなとなった。個の意識という余剰がない生物の場合、種と個は一蓮托生だから種が生き延びれば勝ち。この設計では生き延びること自体に不信感を抱く余地がない。

 

ここでもう少し穿つと、生きていることが正しいとか価値があるとか、生活を続けていくことが是みたいな社会的な思想ってプロパガンダだ。ただ、これが個の儚さと止揚する方策だろうし、これがなければ無敵の人だらけになって国家が存続できないから、まずは生き延びるということに価値を見出さないといけない。社会に対する寄与度が低くても人間だし、人間である以上個人として尊重されるという制度。

 

だって、理性(狂気)で考えれば、退場すれば生きていることや不安やら退場そのものに悩む必要が無いのだから、そちらに向かうのが合理である。僕個人は負の感じも含め、感じられるのは肉体があるうちのことだし、それならできるだけ満喫しようというなって、特に希死念慮によって何か他害的なことをすることもないし、ちゃんと仕事場のルールも守っている。

 

これも個人的な見解だが、希死念慮って基本的に思索によって辿りつくものではない生存願望の鏡みたいなものだと思っている。価値基準を前提とした感情。僕は一時期ずっと自分を責め続けていたのだが、ある日突然どうでも良くなった。この責めって別に本当の自分の感情ではなく、単に外から見た自分がどうかみたいな指標。ついでに滅茶苦茶辛い評価になっている。

 

自分を赦さないと自分に成れないのも、変なインストールがあるよな。

無宗教傾向の日本人ですら原罪がインストールされている。

 

そういえば仕事で上司の上司の何をしているのかよく分からない人(できる人だと読んでいる)から、残業絡みで僕のことを「優しいなぁ」と言った。たしかに残業なければその30分で本を買いに行く目論見があったし、自分を譲っているように見受けられるかもしれない。(僕という)駒が控えていた方が職場的に安心だろうという視界もある。

 

ただ、別に僕は優しい訳ではないと観測している。状況を見ているだけで、情には流されない。情も状況の一部という節もあるが、情って空間的なものでしかない。だいぶ痛い目見て学習した。情だけでしか繋がっていない関係は宜しくない。この関係空間が同じところでしか繋がらないから、ちょっと離れれば途切れる。

 

空間における承認はあんまり暖が取れずにひやひやするのでは。

 

優しいと評価されることが多かった歴史。都合が良い存在という意味と、僕の存在が嬉しいと9:1くらいの比率という観測。後者の優しさは大事にしたいところ。

 

転職情報が満月さんから流れてきて、なかなか面白そう。

議員の第2秘書とか、心が苦しい人がインストールするアプリの相談役とか、ドコモショップの店員とか。相談役の仕事が最も気になるところ。人のことを気にしなくて良いから独白的に書いているだけであって、人の話をちゃちゃ入れずに聞き切ることが好きだし、解決でなく解消を求めているのであれば助けになれるかもしれない。

 

もう人生上の酷いことは経験したからこれ以上暗がりに行くことがない。

あれ、これって無敵の人なのか。いや、仙人か。

 

なんだか、自分史で絶対できないだろうとされていた発話だけで疎通することができるようになったから、ここからでもなんでもできるようになる気がする。毎回抑揚があると尚良いとアドバイスされるのだが、抑揚がない方が安心されるということもあるのではとか。社会的な年齢制限あることは無理だが、そこはどうでも良い。

 

場の極致がパートナー関係なのか。

 

「オメガ城の悲劇」でサイカワ先生と今作の主人公の女性(40歳)が同じ部屋で各々動いていて、主人公が「一緒の部屋にいて抵抗がない異性は珍しい」と頭の中で考えていた。そういうことなのだろうな。相手に良いように見せようと繕ったところで、継続していけばボロが出る。ボロを出さないようにすれば摩耗する。

 

個人的には1対1だと繕っても摩耗することはあまりない。一回住んだ人はその人に対するところより周りからの重圧というか環境的に宜しくなかった。今は個人になれたから、定期的に見損なわれているし、目の前で小躍りしても抵抗がない。要は、場としてその人を保持させたいという感情はないが、一緒に居ればニコニコできるということ。相手に何も求めなくて良い。ここを淋しく感じる節もあるみたいだが、これに暖があるのは従来と変わらないだろうからあんまりしない。

 

これも「オメガ城の惨劇」なのだが、面白い考え方があった。

何かの仮説が浮かんだときに論拠を集めていくのは宗教的アプローチで、否定するものを探していくのが科学的アプローチだという話。たしかに論理的に考えれば1つでも否定があれば崩れる訳で、どれだけ賛同を集めたところで意味が無い。

 

昨日書いたところとも近そう。

 

満月さんが修論を書くときに文学的な立場が違う教授陣に賛同されなかったという話があったがこれはまた別の話で、水準が違うところからの否定は気にしなくても良さげ。

 

情は無理矢理水準を合わせてしまうから良くない。

これこそが自我の統合であると言われたら、そうですねとしか答えられないが。

 

どうでも良いが、明日の予定。

昼に髪を切りに行く。その後本屋に行って良い加減の簿記論の本を買う。その後はダーツで遊ぶか社会的なクズムーブをするか不定

 

あぁ、人生楽し也。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。