不治

 

 

 

調子が悪いというか、バランスが悪い。

お昼過ぎに負けに行くのは良いが、去り際を逃して大変。急いで帰って、1本目のビールをこぼすという。酔っぱらいより不注意な焦り。

 

まぁバランス悪いのも悪くない。

バランスが上手くいきすぎるのもどこかに無理があるのだろうし、この自分も良かろう。

あんまり安定して生きていく気も無いというか、なんだろうな。置いて来た自分の部分みたいなところ。まるっと受け入れる。

 

とはいえ。

はてなブログが去年の日記を読み返してみようというメールを送ってきて冒頭の辺りだけ読んだ。同じ花に注視していてわらける。全部読み返さなくてもだいたい分かる自分のこと。すっきりしたのが2年前だったから、それ以降は大丈夫。

 

 

結局人の性質の深い部分は障害不変なのかもしれない。

自分勝手は良いのだが、他人勝手があんまり宜しくなかった。まぁ他人とのバランスを上手く取り続けるって不可能だよな。それを踏まえてれば良いだけ。

 

やれやれ。

たらたらしていたから本日もタイムアタック。あと30分以内に書き切らなければ。特に本日起こった発想はないから、書きながら考えよう。

 

そういえば、法律書の読み方が随分と変わってきている。お風呂読書には刑法総論、契約各論、債権総論を入れている。こちらは哲学的というか概念の話として読む。租税法もあったか。国の会計みたいな趣。適用される側として読むと視点がズレるのだなとやっと分かってきた。簿記論と会計学を読んでいてふと読みたくなった会社法会社法はルールが細かいのだが、経済効率性と関係者各位(株主、債権者、経営者)の合理性に重きがあるから、ルールとしては分かり易いのかもしれない。問題は細かさと条文が長文であることにあるのだが、長文であることは正確であるとも言える。それぞれ色があって楽しい。

 

楽しく読むものではないという観念は払拭するまでになかなかかかったような。

 

学問は1つの世界だから、越境することによって内界も拡がる。

 

行動経済学統計学は薄い本を何周もしているが、風景以上のことが見えてこない。

 

世の中がどういった切り分け方なのかは知らないけども、知識はあくまで風景であって眺めるものでしかない。その中で動けるようになると体得になるのか。動くというのは組み合わせたり越境したりすること。これが思考だと思っているから、何かを解決するのとは違う。解決的な解答も越境することはあるが、あくまで場における方程式というのが多そう。別にそれを思考と志向しても良い気もする。

 

知識自体では世界は拡がらない。それを体得というか体感しない限りは。感受性も内と外の間にあるし、眼だって間しか見えない。

 

眼には身体を持っていけないという感覚の話って昨日書いたっけ。まぁ何回同じこと書いても良いか。

 

身体って色んな社会的な規範をインストールされているから身体で外界を捉えようとする時に、対象がなんであるかが先に着色されている。時代性とか文化性でもよかろう。そういう視点でしか語らない人は、眼の自在性を置き去りにしているというか、見えるものが身体感覚と同期されている。これはこれで大事なことなのだが、なんだかもったいない気もする。

 

小説やら世界を読むときに特定の誰かとか、なんとなく自分と近しいものしか見ないようにするのって、眼によって自己が規定されるという意味では何者かである自分の鏡像ではある。ただ、個人的にはこの鏡像世界って万華鏡というか遊園地にある鏡張りのアトラクションみたい。洞窟で映る影を世界とするという例え話を書いたのは、プラトンさんだっけ。

 

シュールレアリスムがやろうとしたのはこの身体に付随した視界から、眼を解き放つということだったのではとふと想う。僕は小説読むときにいちいち身体を持って行かないのだよな。漫画もそう。女流作家の小説が読めないと言った昔の知人は身体で読んでいた節。

 

表現物に身体がしんどい描写があったときにいちいち反応するのもおかしな話。

フィクションなのに。でも、身体感覚が大事というのもある。

 

うぉ。

 

ここまで。

続きはまた今度。

 

 

おやすみなさい。

 

良い夢と安眠を。