きりわけ

 

 

 

あっという間に木曜日。明日は仕事終わって着替えて新幹線に乗り込む。

 

主観の時間の経過が刹那だとしてもちゃんと日々は残っている。例えばランチ。月曜日はコンビニカップ蕎麦とおにぎり(エビマヨ)、火曜日はもやしナムルとコンビニゆで卵(スーパーに卵がなかった)とメインは豚肉と小松菜の炒め物だったか、昨日はナムルの残りと厚揚げと人参と新ごぼうのレンチン煮物とメインが鯖缶とおつとめ品セロリと長ネギのポッカレモンやら生姜やらの炒め物。

 

明日は帰ってから洗い物をする時間がない。だが、コンビニやら松屋で食べると満腹で微妙に調子が悪くなる。そこで100均で捨てられる弁当箱を準備することにした。トータルあんまり安くない気もするけども、別に節制の為に自炊している訳でもないから問題ない。美味しいんですわ。

 

栄養価は外食でも現代日本社会において全く問題ないが、人はご飯から栄養だけを摂取している訳でもないし満腹を求めている訳でもない。栄養だけだったらサプリで良いし満腹だけだったら味は関係ないし。味の中に作った人の意図とか気持ちとか心遣いがあるというか。カップ麺とか缶コーヒーだって、すぐ食べられるという限定条件の中で限界まで美味しくするにはどうするかという試行錯誤の結晶だろうし。

 

これって、人が文章から情報だけを読み取っている訳でもないというのと同じこと。食べることも読むことも外界から自分への摂取で括られる事象であって、そのまま食べようとしたら胃もたれするか、何も吸収できないまま排泄される(忘れる)。

 

あぁ、本日のメイン。次は鶏肉だろうと物色していると、胸肉ミンチがある。ミンチは基本的にとろみをつけた炒め物にするのだが、おつとめ品を眺めると三つ葉が50円。この組み合わせってなんだろうと調べたらつくねハンバーグがあった。作ったことないけどやってみるかという感じで、適当に味付けして作ったらあっさりでめちゃ美味。ハンバーグ的なものには人参のグラッセを付けたい質だからレンチンでやったら、本日は塩味が強かった。伯方の塩だし、塩の必須量は実は低く設定されているのではないかという記事を今朝読んだからその影響なのだろうな。パンチのバランスが良い。

 

副菜はレンチンブロッコリー白だしと鰹節とクレイジーソルトで和えただけのものと、レンチン目玉焼き。

 

精神エネルギーの段取りで言えばなかなかの消費量だが、時計時間に換算すると30分くらいでしかない。試行錯誤の結果というか、時計時間も主観時間と同じくらい重いという思想であって、特にせかせかして生きている訳でもない。いや、僕が日常で歩いている(小走りしている)ところを観測した人は僕が生き急いでいると見える可能性はある。

 

個人的には、マイペースを可変できることが速いは遅いを兼ねるみたいに許容領域が増えるのだろうなというくらいであって、自分の当たり前のペースがほんとに当たり前なのかを試行しているだけ。他人には僕と同じバランスでは生きられないと思う。

 

とか言いながら、固形物を入れずに胃腸を休めるというぷち断食の僕の生活を取り入れる満月さんは凄い。あとは当人の身体と相談するところだし、僕は特に自分の方法論が他人にって正しいとは一切思えない人だから、好きにすれば良いとなる。その「好きにする」の中に僕が採り入れられるというのが凄いことだしこういうのが関係の本質だろうなというだけ。

 

 

お仕事。

 

繁忙期なのだが、なんだか暇。暇に任せて色んな人の案件を覗いてなんなら片そうかって越境したい衝動が起こる。でも単なる下っ端だからせっせとはぐるまの役をこなす。ついでに、なんでも越境したい訳でもなく、あぁこの人自分の仕事だけなんじゃろうなという人にはかなり嫌悪感を催す。回す前に一言聞いてくれていたら全体の仕事が減っていくのに、あえて自分はここまでって限定してやらないのだろうなって。これは手抜きとかではなく世界観の話。

 

こういう人は何が起こったら世界観が覆るのか分からないし、僕が直接雑談もできないし、勝手に凄くスポイルされた人なのだろうなって思っている。案件の記録の文章の味が殺伐としているから、そろそろ退場かなとか。僕の退場とどっちが早いだろう。

 

有能な新人さんも割り切っているのだが、割り切り方が、自分の仕事ではなく自分の役割だから微妙で全然違う。仕事終わったらせっせと帰るのがとても良い。大事の置き方が曖昧ではないのだろうなって。家族とか子供の方がそりゃあ大事だ。

 

とてもどうでも良い話。僕は職場で頻繁に伸びをするのだが、ここに入った頃より伸びをしている人が増えたような気がしないでもない。デスクワークは身体が凝り固まるが、ずっと真面目に固めて仕事したら体に不具合が生じることになる。真面目に見えるために姿勢を緊張させるってやんわりおかしい。緊張しっぱなしに耐えられるように肉体はできていないし。マスク社会であくびが見えないから結構あくびばっかりしている。

 

緩みがないとほんとに力を入れないといけない瞬間に力が入らないような。

 

 

 

 

「暇と退屈の倫理学」の話。

 

人は一生退屈に苛まれるというのは著者さんの説。たしかに習慣は無意識が勝手にやってくれる領域であって、そういう自動操縦の中では意識は退屈を感じるかもしれない。ただ、この本、退屈については語っているけど、暇については退屈と同義が当然として全然語られない。最後に語りがあるのかもしれないけども。

 

退屈を覆すためには、習慣の中に意識的に不法侵入させる意識を稼働させるというのは分かる。この日常の変化を許容するのが暇という観念だという結論であれば納得。

 

暇という余白は勝手に時計時間が空いたところに在る訳でもないし、なんなら社会的に対価と直結しない領域で無駄なことに目が行く、行動があるところにしか起こらない。

 

交友関係を広めるために人と接するのは目的に限定された関係だし、何か社会的承認のために情報を食べるのであれば、そりゃあ暇も退屈もないが、そこに自由はあんまりない。自尊はあるかもしれないけども、この文脈の自尊って、他人を手段にするくらい余裕がない。

 

カントさんが書いたらしい、他者を手段ではなく目的とするという文脈はこういうところなのかな。

 

知らんけど。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。