不現実

 

 

 

枯れ葉に紛れるセミの抜け殻。赤い木の実のアクセント。

 

 

本日も相変わらずざわざわ。希死念慮。ネガティブで退場ではなくもっとやんわりなニュアンスなのだよな。迷惑とか居場所とか。まぁ、でもこの漢字でも大丈夫くらい1人を確立したし、大した制限にはならない。派生物なのか、信号がない横断歩道で誰も譲ってくれないことにイラっとしたとき、いや、これ自分の状態が良くないだけであって世界は別に何も悪くないよねと顧みたらイライラが行き場を無くす。

 

世界が悪く見えるのは、常時状態異常に罹っているのではないかという説。

だって、どんな時空で生きたとしても美しいものが見えた人の表現はあるし、結局どう見えるかってどう見るかなのでは。この解釈は悲観的に世界を捉える人を否定することはできない。そう見える人に、もっと良く見えるよって説得の仕方としてズレている。あくまで当人の人生劇場なのだから、そういう方向で口を出すのは違う。

 

 

さておき。

 

仕事。

 

先生がお休みだった。短期的には場が回って問題ない。頼っているというよりは甘えているのだろうなという感じ。頼るはできないことを回すことで、仕方がない。ただ、甘えはほんとうだったらできるのにしないこと回すから、結果的に非効率になる。もちろん仕事の話。僕としては先生より年下上司の方に頼るのが多いかもと思った。僕の職位ではできない判断を委ねつつ、情報も回す。先生の仕事は若干部署の枠からはみ出ていることがあるから、それを部署としての総意とはできないというブラックボックス的なところがある。学者脳だから越境がデフォルトなのかもしれない。

 

この意味で言えば女性上司の方が立場を確立しているとも言える。この人に頼るしかない領域がいっぱいあって、一週間でも休んだらどうしようもなくなりそう。リーダーとしてどうなとなるとよく分からないけども。

 

仕事論は置いておいて。

文量が多いとそこに傾注していると思われそうだが、そんなことは全くない。

 

それで言ったら、早番というか一般的な就業シフトの12時からの休憩で暖かい満杯の食事スペースから外れて公園のベンチで無理矢理光合成しながら食べたときにやってきたカップルの女性の食事の仕方の方が気になる。ちらっと見ただけだが、可愛らしい円形のお弁当箱を拡げて食べつつ、たけのこの里をお箸で摘まんでいた。お弁当が食べ終わったデザートとして食べていたかは定かではないが、箸を使っていることにぎょっとする。冒頭の枯れ葉に紛れるセミの抜け殻と同じくらいのインパクト。

 

何の話や、という感じだが、僕の世界はこんな感じ。

 

 

帰り道。

 

肉の塊が食べたい衝動に駆られて唐揚げを作ることにする。鶏もも肉の角切りと薄力粉を購入。だいたいメインにも野菜を入れている野菜不足は、レンチンピーマンの塩昆布と胡麻和えを作り、冷蔵庫にあるもやしナムルと組み合わせて埋める。

 

唐揚げはフォークでザクザク差してクレイジーソルトと胡椒、酒、にんにくしょうがチューブ、しょうゆをぽとりで下味。薄く薄力粉で揉んでこめ油で揚げた。衝動をしっかり満たしてくれるわ美味いわ、流石毎日作っているだけある(自画自賛)。胃もたれにもならない。

 

 

そうして、そろそろ思索。

 

僕は間違いなく日常生活を恙なく送っているし、社会生活(仕事)もこなしているのだが、それにも関わらず、現実を生きているという実感はない。いや、厳密に言えば、実感の中ではきちんと生きている。ただ、別にこれを「現実」として定義する必要はないなという話。

 

現実って、おそらく「社会」とほとんど同期している。生きている実感が社会と一致していることを「現実」と言うのではないかという説。

 

というところからすれば、フィクションやら遠近法やら社会が、一種の虚構的表現と同じく、現実も表現(解釈)の技法の一種だよなという話。

 

技法であるから悪いとか、本来ではないということでもない。

そもそも本来の現実なんて誰も知らないと思うし、回帰精神は郷愁であって、退屈。いや、こういった意味の退屈が人間の本来だってハイデガーさんは考えていた模様。

 

書から採り入れる世界より、物理界で実際動いて収集した世界の方が生々しいというのは確かに分かる。でも、人が物理界だとしているものって、社会界であることが多そう。野山を走り回って自然を収集することができるのは田舎が社会だった人だけだし、自然を社会的な機構みたいに捉えることになる。自然公園のような人工で整えられた野山が自然であるみたいな。

 

そもそも、自然自体は物理界において既定であって、感情の対象にはなりえないと思うのだが、雨が降ったら気分が落ちるとか、晴れ過ぎても困るみたいな感情って自然を社会化している思考だと思われる。本来は文句を言う事はできても操作できない。

 

で、人と物理界の自然現象として関係できることもない。関連がない人とは関係できない。

これが現実だという括りは問題ないけども、だとすると、やっぱり恣意的な解釈で構築されたのが「現実」と呼ばれる「虚構」でしかないよなって。

 

この観点は、別に全部嘘っぱちだと投げやりになる方向には向かわない。人が表現する大事なことはそれぞれ大事だし、現実認識も含めて人間の個は尊重すべき対象になる。その対象に自己を含めるから自分が尊重されていないみたいな話になる。眼が見ている中に自分が含まれているってなかなかの入れ子構造。

 

なんだか長々書いたけども、この思索は書物も「現実」に含んで良いよなと結論付けるための文字数。身体が動いてないと現実を体感できないとか、考えているだけで実際は動かない自分を現実から外すというのはおかしい。

 

こういうことを言える人は、肌感が時代に合っているというだけ。いや、とても良き性質で生まれ持っている。

 

僕としては、書物を読むことが現実ではないというという感覚がありえない。

例えば、「世間」という日本人の感覚はサンスクリット語で仏教由来らしい。もともとは世界の語彙も全宇宙だから、自己を度外視した全ての世界の間という意味。でもだいたいの世間を語る人は、自分の世界のことしか言っていない。この定義の更新が現実でない訳がない。

 

日本語って由来語が多いよな。

古語は定義が曖昧過ぎるから排除されたのか。個人的には定義があいまいなことこそ人間の本質だと思っているが、そんな表現は誰にも読まれない。

 

 

はい。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。