人それぞれ

 

 

 

あれ、最遅番の時に書く体勢になるのって23時回ってなかったっけ。書き終わりが日付変わっていたような。昨日はもっと早かったが、副菜作らなくて良かった。本日はレンチンもやしナムル(ごま油、ほんだし、にんにく、柚子胡椒)を作った。

 

お風呂読書もフルスケール。これって何冊なのだろう。40冊くらいはあるが、引かれそうだから現実的には言えない趣味。ちゃんと読んでいるのかって言われそう。ちゃんと読むのが1冊ずつというしっかり読むという観念が一般的だろうし、なんなら日常を語るだけで読書マウントになりえそう。

 

感謝の正拳突きのように読むのも書くのももっと早くなると代わりに祈る時間が増えるな。実際何か時間が増えている気もする。時間制の仕事だと、時間が増えたところには別の仕事が埋まって来て仕事量が増えるだけという不毛さがなんともいえないが、体験量が増えるすれば濃密な仕事時間を過ごしているとも言える。時間が濃密であることはそれ自体が増えているということだし。

 

 

さておき。

 

昨日も早かったため、起きてから時間の余白があった。2度寝の合間に言えないことをして少し早めに起き上がり、お腹が空くまま朝ごはんを食べた。納豆ご飯と新ごぼうと人参のきんぴらの残り。朝活で会社法読むか。noteの記事やら終末的思想の人のHPの記事は貪っているが、朝から紙媒体も美味しかろう。

 

二度寝でうとうとしている時に、もう1回高校に戻ったらどんな勉強をするかというIF世界の夢を見た。実際戻ったとしても再度高校生活をするのは嫌なのだが、あの時代だろうが今の仕事生活だろうが、同じくらい時間はあるよな。

 

高校時代、時間が余っていると感じて埋めるのにあくせくしていた感じ。ここを勉強で埋めれば良かったのだが、退屈を埋めるために勉強時間を増やしたところでなんにも吸収できない。僕が嫌だったのは時間割。まぁ授業は仕事の拘束時間だから問題ない。拘束されていると感じてしまうと退屈になるから、楽しめば良い。

 

問題は、仕事(授業)外の成果も時間で測られること。高校によるとは思うが、一応進学校だったからか、毎日何の教科を何時間勉強したかということを提出させられていた。黄色が国語で赤が英語、青が数学みたいに。こんな測り方というか縛り方しかできないというは分かる。僕は嘘の色で毎回塗りたくる。ついでに自己分析も書かされるから、もっと時間をかけないとみたいな嘘も書く。実際ほとんど漫画を読むかゲームをするかごろごろするか。

 

僕がすべきだったのは、こういう時間縛りに付き合わないことだったのだろうな。もちろん時間をかけて積み上げて行けば成果になる人も居るだろうし、こういう人の方が多いのかも。ただ、時間をかけることさえすればモノになるというのは一種の信仰ではあると思う。時間自体はそんな万能なものでもないし、なんなら貨幣とも違う。

 

もう1回戻ったら、というところで具体的に出てきたのは英語だった。毎日ちまちま教科書の英文を書き写して英訳する宿題があったが、本文はコピーして(実際京大に行ったクラスメイトはそれだった)、英訳が載っている教師用の本を手に入れて宿題に時間をかけずに、ひたすら英語と日本語訳が同時に載っている本を読んでいれば良かった。気になるところを英語辞典とか文法書で参照するくらい。特に今からするつもりはない。外国語だったら英語ではなくドイツ語にする。哲学書が多そう。

 

後の教科もてきとーにスルーしつつ、読んでいるだけで良かったのだよな。

書いて体に刻みつけてみたいな方法論は合っていなかった。数学は例題の証明を書きながら追跡していたらなんとなくできたから、いちいち考えて解くみたいな方法も違う。材料がない段階で自分の頭で考えたところで応用することはできないし、知識は具体的なところでしか正答できない。具体を増やすためには読むしかなかろう。他と結びついていない具体的な知識は、一夜明けたら忘れてしまう。

 

いまや無茶苦茶読んでいるが、高校時代は小説を読んだ記録がない。朝読書で何を読んでいたかも不明。室長が乃南アサの犬の話(検索したら「凍える牙」だった)を読んでいたのは残っている。なにせ分厚かったから。読まずとも国語は何故かできた。正解とかはどうでも良かったし、文学史もどうでも良いのだが、現代文、古文、漢文オールマイティ。選別されている作品が美味しかったからだろうとしか考えられない。国語は先生問わず好きだった。

 

院試前でも解くことはしなくて、6科目あったから定評がある専門書を1科目2時間、計12時間をひたすら読むだけしていた。知識として収集するのでもなく、ただ読む。本番では何故かこれでうまくいった。

 

 

勉強史を語った訳だが、別にこういうことは過去のことでもない。過去の栄光を語っているつもりもない。だっていまの方が遥かに頭良い。義務教育時代って、お勉強をさせられている訳で、仕方を特に倣う訳でもない。ここで学ぶべきことって当人の知識の吸収の仕方だろうし、もっと言えば自分外の世界との関わり方。別に吸収・摂取しなくても恙なく一生は終えられる訳で、抽象的な概念なんて把握する必要がない。

 

具体的な知識(体感)に合うか合わないかで選別して生きることは当然可能。記憶力ってあくまで具体的なものだし、ここで勝負したってコンピュータには勝てないから、何かを覚えていることで他人にマウントを取っても悲しい。記憶領域は外付けチップでなんとかなる世界になるような。スマホの電話帳の延長。

 

だから僕は、特に人が本を読めば良いとはならないし、本を読めることが何か有利になるともならない。自分から離れて対象を把握するのは本を読めるかどうかとは別だし。ただ、これだけ人が書いた文章が溢れている社会で、文章から空気感を読み取れないというのはどうなのだろう。いや、ここは良いか。

 

そろそろ満月さんも寝る準備ができそう。

 

 

最後。

 

僕の人格って自我が確立した思春期時代から全然変わっていない。

当時はガラケーの電子メールで交信していた時代。中学校の同級生(女の子)と高校が離れて、お互い忙しいみたいな話になったときに、「僕は体が忙しくても心は暇人」というフレーズを送ったただの変人。

 

ただ、哲学者の考え方をいくつか読んでみると、暇でないと、暇があるからこそ哲学的な思索が生まれるのだろうなということが分かってきた。哲学者は暇人。何かを見つけることできても、特に実生活と連動しない。連動させるなら哲学より実学をやれば良いし、なんなら心理的安全を確保してくれる人とマッチングした方が生活は楽になるだろうな。

 

満月さんは心理的安全を確保してくれる人だし、僕の哲学的迷子の人格も受け入れてくれる模様。とりあえず、もっとシュールレアリスムの話ができるくらいには読みたいところ。

 

 

どれだけ時間的に長くなろうが、時間が自分軸である限り、世界は惰性に劇場する。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。