見え様

 

 

 

バイオリズムによって世界の認識が振幅するのは自己に敏感な人は分かると思う。ただ、普通に客観っぽくされる単なる視覚でも日々瞬間で起こっていることだよな。あまりに身近過ぎる現象だし、表現したところで共感・共通項にはできないから人はそういうことを語らないのだろうなという説。もしくは意識していないあるいは意識できないか。

 

本日ぽえーっと早歩きで出勤の道中、畑だった更地(わくわく公園になるとの看板を見かけた、わくわく)の辺りを歩いていると、カラスがカーカー飛んでいる。早番の時は居ないが遅番の時は何かの活動をしている。ふと、色合いは同じで違うシルエットの黒が目に留まる。黒猫さんだった。微動だにしなかったからそういう置物かもしれない。明日も探してみよう。

 

調子が悪いときだときっと目に入らなかっただろうなって。帰っている時に見かけたお月様がオレンジで煌々と神々しく、思わず「おー!」と声が漏れた。月の見かけ上の大きさが全然一定ではないというメカニズムは解明されていないとどこかで見た気がするが、これって、見ている当人のバイオリズムによって変わって来るのではなかろうか。スマホのカメラで写そうとしたら、見かけよりずっと小さくなるような。

 

こういう意味で、色も客観的なものではなく主観的な現象でないかという考察していた人がいた。いや、今もしている人はいるかもしれない。標識としての信号の赤青黄色は、見え方の振れ幅が公約数的に少ないからなのかもなと。

 

こういう細部の色合いとか見え様を単語で括ってしまえる言葉はこの機能が最大のメリットでありながら、最悪のデメリットとも言える。見えている色はそれが何に着色されているかによっても変わるのに、赤はどんなグラデーションでも赤になるし、細かく表現しようとしてもなんだか無粋になる。日本語の色の表現が多いのは、色覚における言葉への挑戦なのかというのがふと浮かび、第一言語が日本語で良かったなと想う。他の言語が色に当てる言葉がどれだけなのかは全く知らないが。

 

 

今日も先生がぼやいていた。データを集計するのも仕事の一部なのだが、集計をリクエストする時には定義をきちんと整理して依頼して欲しいし、聞き側もそこを意識して欲しいよねって。たしかにデジタルは曖昧なイメージを忖度してくれることはないから、曖昧な目的を投げても曖昧な結果しか返ってこない。曖昧に返ってきたデータに対して違うとなると仕事がどんどん往復することになる。いや、僕が働いている部署もクライアントが完全に自己で解答を出せるようになれば要らなくなるような仕事という意味では損害保険くらいの矛盾はある。

 

僕は曖昧なのも好きだし、かっちりした定義も楽しいから切り替えは特に問題ない。先生は仕事上の目的までカウンセリングして探り出す方針だが、先生が居なかったらこの職場どうなっていたのだろうなという感じはある。場当たり的に解答を投げてそうじゃないって返って来るから仕事としては終わらなくて企業は利益を出し続けるけども、生産性がなさげ。

 

かっちりした定義も、おそらく知識と混同されている。こういう場合にはこういう回答みたいな具体的な事象は別に定義ではなく、定義は事象とは無関係にあるデジタル的な要素だから、あんまり人には聞くものではないなと学習した。別に相手の発言がどうあれ、自分のことをどう捉えているかは発言外の振る舞いの方が意味を持っている訳で。

 

「最終講義」の自画像史で、西洋における個人は、世間に生きる日本では殺されるみたいなフレーズがあった。これって西洋発祥の個人がデジタルというか、定義だからなのだろうな。全体ではない個人としての空間があるという存在論。世間は調和の世界であって、その場の有力者の空気を読まないといけない。

 

個人として場所を取って良いのだよという個人観は、他人を蔑ろにしても自己の社会的存在を守るというところでがつがつしている。自己主張しても良いということに繋がるが、これを日本ですると、調和を乱しているみたいな話になる。

 

僕が想っている個人はどちらでもない模様。

意識的に主張している自己とも、世間に抑圧されてしんどい自己とも違うもっと誰とも無関係に存在しているものだから、社会的な個人観はぶっちゃけどうでも良い。

 

そういえば、昼ご飯の時。何故か公園にお子様が氾濫している。静かに遊んでいたからどうでも良い。食べ終わった後に、コンビニに水を買いに行く道中、読書とかで感得する知識みたいなところと、実際に体を動かした経験に優劣はないからここを包括する上位概念に当てる言葉はなかろうかと考えていた。自分の世界を形成しているという意味では外からどう評価されようが同列なことを表現する単語は、「劇場」なのかなと。読むことだって考えることだって、内部的な現象としては同じこと。

 

たぶん、皆そういう世界で生きているけども、そんなこと他人に言ったって通じないと学習しているから表現しないだけだろうなという説。代わりに何かをしている。

 

定義的世界観といえば、輸入されてきた言葉は曖昧さが排除されているから、遣うだけで何かを定義した気分になれるのだろうなという感。あえてそういう語用をしている人も居るのかもしれないが、そういう遣い方はあんまり美味しくない。

 

バイオリズムが上向きになると言葉がいっぱいでてきて編集するのが大変。

掘り下げる言葉が無尽蔵。

 

満月さんをお待たせしているのでここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。