転々

 

 

そういえば、整体揉みほぐしはこのまえ初体験したが、占いはまだだった。満月さんの職場ではもみほぐし整体師と占い師がそれぞれのブースで共存している。体の痛みに悩みがなくてももみほぐしに行けたのだから、特になんの今後の悩みもなくても占ってもらうこともありなのかもしれない。単なる好奇という動機で。

 

 

さておき。

 

今朝はとんとよく寝た。朝活が全くできないくらい睡眠を欲している心身。別に無理に朝活を継続するつもりはないから、寝たければ寝れば良いというスタンス。

 

大洪水の夢。何処かの山の観光地に行っていて幼小中と一緒だった人(男)をモデルとした登場人物と出店を回っているシーンから。お汁粉ではないのだが、串団子が透明なビニールコップに入った汁に浸かっているスイーツが売っていた。いま甘味はなぁって買わなかったが。野球観戦をしていたり何故かバッターになってホームランを打ったり(打ったことはない)と、夢ならではだが、その後に大雨になった。

 

特にグロテスクなことは起こってないが、大きな川に大量に自動車が流されている。おそらく僕らが乗って来た車も流されているから、2人で川沿いの舗装道路を歩いている。洪水なのに泥水っぽくはなかったか。もう1人が何も入ってないゴミ袋を持っていて、これだけ流されていたらこれを捨てても問題ないだろうという感じで捨てたところ、川から船に乗った監視員みたいな人がやってきて、注意される。

 

洪水の夢を調べてみたところ、想いの氾濫か生活の変化を示唆しているとかなんとか。前者はないから後者なのだろうな。お誂え向き過ぎる。

 

 

目が覚めると現実は雨。あったかくて、やっとこさ春が本腰かと思ったが、職場の雑談から明日からまた寒気で冬が鎮座するらしい。人間にとってはやっかいだが、たしか植物の開花って寒暖差がトリガーになっているはずだから、自然の流れなのだろうな。恣意的に人間が区切った季節通りにはうつろわない。

 

二重の防寒着が不要になる朝だったが、帰りの夜は明日は二重だなという予感を孕んでいる。

 

仕事。なんだか先生のキャパがオーバーしつつあるのか、言葉遣いが若干荒れている。もちろん矛先は新人さんへではないのだが、当たり前とか、そんなことは絶対ないとか、○○べきとか、強い言葉を遣うのは余白が無くなってきている証左なような。

 

察知したベテラン陣は女性上司に聞くようにしているみたいだが、女性上司もそこまで余裕があることはなさそう。先生とは別に新しい仕事が増えているし。まぁどうしようもない仕事は集めるしかないのだが、雑談風にはどちらの上司にも聞かないようにしている。

 

そうして、年下上司から呼び出し。寂しくなるなぁとの枕詞からのやっとこさ退職の目途が公的になった。遅くとも4月の中盤で終わって後は有給消化になりそう。

 

そういえば職場の人の言葉遣い。先生は誰に対しても敬語だが、他の上司はけっこうまちまち。女性上司と彼女と常に雑談している先輩は僕のことを○○くんと呼ぶが、最古参の人とお洒落な先輩は○○さんと呼ぶ。年下上司はマネージャーだから、先生と女性上司以外の下っ端全員に敬語はないが、人柄が優しいからあんまり威厳はない。

 

ちなみに僕はこの職場では同期も新人さんも含めて全員に敬語で話している。日常でも満月さんに対しても6割は敬語(残りは奇声)だから、フランクな言葉遣いってなんだったっけってなる。

 

敬語ではないことと、尊敬していないことが一致するものではないけど、フランクに下と見ている人に敬語を発することは難しいかもしれない。年功序列は社会規範であって、だからそう接しないといけないことはないし、接せられるべきいうこともない。

 

昔のエピソード。大学のコンビニ時代の1つ歳上の先輩と卒業後も関わるようになった後、もう友人関係だから敬語を排しても良いですかって聞いてみたことがある。いや、それは礼儀的に駄目だという回答。だから最終的に断捨離して、もう関わる世界線はない。ちなみにこの前通話した人は、大学の同級生だが1浪していて厳密には1つ年上だが、年上として敬えみたいなところは一切なかった。だからもう1回ありうる。

 

言葉遣いはどうでも良い話だが、どれだけ自己から尊重していたとしても相手から尊重されていない関係を継続する意義はほとんどないと想う。もちろん自己がそうしたいという決断に勝るものは人生劇場の舞台にはないから好きにしたら良いが。

 

僕は結構幼児に好かれがちなのだが、幼児に対する特有の宥め語彙は使えない。敬語までは使わないが、愛玩みたいには扱わない。媚びたら大人はころっといくのに、この人変だなと思われている説。可愛いねぇとか言わない。別に歓心買いたくもないし。

 

何の話や。

 

人材として居なくなる人に対して寂しくなるという年下上司の表現、人間味があって良いな。常套句なのかもしれない説もありつつ、特に何もなさそうな僕の存在感が存在されている。(そのうち忘れるのだろうけども)

 

 

やれやれ。

 

思索パートは早足で。

 

本日はジェンダーではなく、退屈論。

「暇と退屈の倫理学」の著者さん(たぶんこの本以外読む気がなく覚える気がない)が、ハイデガーさんの退屈と闘うためには「決断」だという話を批判している下りで、「そういう話なの?」ということが起こった。

 

環世界の考え方って解説したっけ。シグナルへの反応が世界の全てということ。ハイデガーさんは人間は環世界に囚われない唯一の存在としていて、著者さんは人間も環世界に生きているが、可動域が相対的に広いという説。

 

可動域が広い故に退屈になるという世界は共有してそうなのだが、ハイデガーさんの退屈から自由になるのは決断だという結論に対して、いやいや、決断した後は決断に奴隷になるのではという方向になる。

 

なんか変だなと思ったのが、決断には未來方向にそうそうに放棄できないという決めつけがあるところ。たしかに社会的に見て、決断と認定されるためにはある程度それを継続しないといけない。でも、ほんとにハイデガーさんがこの文脈で書いているようには思えない。

 

シグナルがいっぱいある中で、流されずに何かを決める、で、決めるということはそれを辞めるということ決めることができるという文脈であって、自分の決断に縛られないといけないというのは、決断に対する心象的定義が強すぎそう。決めても良いし、辞めても良いというのが人間の自由だと言いたかっただけのような。

 

知らんけど。

 

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。