起承転

 

 

調子は良い。後は物語の展開に乗るだけ。

 

調子の良し悪しって人それぞれの指標があるだろうな。僕は未だに方針もない。ただ、良い現象が起こるとか、悪いことをスルーできるのはまだ半ばで、何かを悪い方向に解釈しようとして闇に落ちそうなときに、その解釈を宥めつつ、「ほんとにそんな話なの?」と世界の創造の方向性を面白くできることなのではとなっている。

 

文面だと空想の話っぽいが、世界は可能的なものだと捉えているので。世界は可能性に溢れているみたいなサンシャインではなく、もっと現実的可能的なところ。ただ、統計的確率論ではない。確率って人が何をしようが無個性的に発生するものだが、可能は個別に能う可くだから、世界はそんなに決まっていないという説。

 

今の世界観って、読んだことなくてもヘーゲル、カント、マルクスフロイト、辺りが解析した人間像が前提になっているような感じ。それが悪いとかではなく、そろそろもっと動いても良いのでは想った。ロック、ルソー、モンテスキューとかも政治やら法学観の前提になっている。古さとは無関係に、個人的にはもっとこの辺りの原典を読み進めたいところ。ハイデガーさんの「存在と時間」の上巻を読み終わったが、全然分からない。いや少しは分かるところもある。これは前提としている思想が分かって居ないからだろうなって。僕の読解力不足という説もある。現存とか実存の中身の感じがよく分からない。ヴィトゲンシュタイン論理哲学論考でいうところの対象とか事態と同じような感じ。

 

数学(科学)的に語るなら、最初に定義して欲しいが、無定義用語なのかもしれない。というか、そういう語りではないのかもしれない。

 

 

さておき。

 

本日は運試しで遊んで来たのだが、その前にお散歩。ぽかぽかしていて春の芽吹きを探しに行こうかなと。色が増えている。梅は白いのが淑やかで美。近所のこじんまりした空気が好きな神社を通り抜けずに回ったら、日陰で休んでいるお散歩中のお犬氏と目が合う。彼(彼女)には僕はどういう風に見えているのだろう。

 

ピンクの絨毯にはまだ早かった。春はなんだかんだ暑いし、何より花粉症の人にとっては地獄の季節だから評判が悪いから、旧暦の方の春の方が人気は高かったろうな。

 

そろそろ日常的にこの街の風景を眺めることはできなくなるから、しっかり眺めておこうという気分が沸いた。記憶って、覚えようとしない方が残る。問題は覚えようとするのではなく、対象を意識的に眼差しているかどうかなような。意識に信用がないと記憶に頼らないといけない。まぁここは写真やら動画を取っておけば瞬間としては物として保管できるようになるけども、物は壊れる。記憶は忘れると続くフレーズ。引用だが至言。

 

そうしてちょっと勝って帰り道。勝ったことによって来週末に満月さんに会う可能的世界ができる。一瞬気乗りしなかったのは、本来一ヵ月間隔で切っていた髪を切るタイミングを3週間くらい逃すことになるから。

 

専門家が切っているからそれほどもさっていない。ほんとに経済的にヤバイ時代、自分で切っていた。前横は鏡で見えるし、くせ毛がてきとーにカバーしてくれるから、セルフ散髪しているとは見られなかった。都合が良い髪の毛だ。前髪くらいは切っても問題ない気がする。

 

最近前髪を長めに切ってもらっているから、すぐに鬱陶しくなる。ドライヤーで乾かす時に分け目を付けたらなんとかなるが、個人的に視界に前髪が入って来るのはなんとなく面倒。今の伸び具合だと、ぴっちりワックスで固めたらリーガルハイの古美門先生の髪型が再現できそう。

 

この前髪感、中学校の時の卒アルの時と近い。あの時なんであんなに長かったのだろうと考察すると、床屋さんって髪型をどうにかするのではなく、爪切りみたいに伸びた分を刈るだけで、刈った直後の自分のスポーツ刈りの頭が好きではなかったからだろうなと解釈する。頭の長さが際立つ。特にコンプレックスだったかというと微妙だが、あんまりしっくりこなかった。とはいえ床屋さんのおばちゃんは何となく好きだったが。顔の産毛を剃られるのってなんとく気持ちが良い。素人が他人にしたら犯罪になりうることを解除する技能があるプロフェッショナル。

 

なんだか脱線したが、物語上もうこの場所の近所の床屋さんで切る機会がなくなるのは全く問題なく、前乗り気味に次の良い感じで切ってくれる雰囲気が良い床屋さんを見つけた方が展開的には面白いよなってなるのが冒頭に繋がる解釈。悪い意味での解釈だと満月さんが僕の散髪を妨げているみたいなことになるが、「ここはそんな話なの?」と面白くする編集者が出てきて、たしかになとなる。縁のエネルギーは人知を超えている。

 

満月さんは離れるかもしれない可能を想定しなくても良い人なのかもしれない。そんなことあったらなかなか人生劇場がバグってきている。

 

やれやれ。

 

もやしが美味い。本日は単なる豚肉ともやしのポン酢炒めがメイン。安いからもやしを食べようとなった訳ではなく、そろそろもやし食べたいなとなっただけ。副菜には安かったレンコンをゆかり和えにしようと想定していたら、家にゆかりが1つまみしかなく応変的に梅干し2個分の梅肉を醤油で溶いて対処した。美味い。煮物のもったりしたレンコンも良いが、酸味ですっかりしたのも美味しい。

 

真面目に書くという行為自体が、書くことは真面目であらねばならないという社会性なのだが、ともかくとして。

 

文学理論の入門書。学者が書いた入門書ってかなり面白い。専門領域で生きている人が一般領域の人に何を書けば良いかって削る作業は滅茶苦茶苦痛だろうなって。深海魚が日向に出てくるような。

 

ジェンダーの話が出てくる。これを書いた人(今後読む気がないから名前を眺めていない)は最後に、「人はジェンダーに呪われている」で締めた。こういう言葉を書ける人がジェンダー論を客観視できるのかという意味で言えば、学者ではないのかもしれない。でも動機がある運動は合って良い。ただ、この考察が世界を良くするのかというとどうなのだろう。

 

社会の標準が物理的姓(セックス)を越えたジェンダーになるって、どう考えても無理。外から見えないのであれば、内部の精神も対象にする必要があって、社会化されない内部も社会化される訳だが、そうすると、社会的に嫌悪されるロリコンみたいな精神性を排除する根拠が無くなるような。

 

社会にどう見られるかなんて当たり前の鏡面だし、それを世界のせいにしているうちはこういった考え方に展開はないような。

 

子を成さない配偶カップルは普通にあるから、同性婚の承認はあっても良さげ。

僕は腐っているので、どういうパートナー関係もそうだと開示されればそうなんだろうなと認証できる。

 

なんとからしさが苦しいと感じられるのは、そのらしさが社会性として習得されているからであって、何もなければそういう世界は起こらない。

 

やべ、待たせ過ぎている。

 

ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。