情報量

 

 

たまたま昨日の日記を読み返したら冒頭から誤字だった。アルパカ顔だ。アルパ顔ってなんだ。まぁ文脈で読めるだろうから特に修正はしない(面倒なだけ)。きっちりしたところできっちり読まれる訳でもない。だから文は面白い。伝わることを問題とするなら言葉を遣うのは悪手であるような。

 

 

さておき。

 

やってみると別になんとかなることって人生劇場には多い。ここのストックはまだまだいくらでもありそう。できない、したくないと決めているのは従来の自分であって、従来の自分(無意識)は、未來のことは感知できない。

 

別に大した話でもなく単に愛知県から大阪府の職場にダイレクトで出勤してみただけ。いや、距離だけであれば大したものか。手が塞がるとか一旦マイフィールドで落ち着くとか、別になくても問題ない。僕の荷物が多いことを問題にするほど仲が良い人とは出勤帯がずれている。本日は新人さんと同じエレベーターだったが、そんな雑談振られない。朝帰り(?)の僕より随分疲れているように見えた。この職場、努力とか記憶があんまり意味無いから、不毛さに疲れるのかもな。もともとシステムを作っているのは別の部署だし別に知識の源泉が上司にある訳でもないから、また聞きのさらにまた聞きになる。先生だって仕様確認を頻繁にしているくらいの仕事。

 

聞かれたら話すことは嫌ではないが、あえてやたらめったら自分のことを語りたくはないのも、変な制限。ということは、直帰で愛知県に行くということも問題なくできるのだなと気付く。自分にはまだ可動域があるというのは、意志だけでは見つからない領域。人との関係って大事だ。試練ではなく許容の中で行われるべきところだが。

 

お仕事と言えば、新人さんたちみんな真面目だが、その先に行ける人は居なさそう。有能な新人さんは働ける時間帯が少ないということで無理だし、他の人も自分で考えることをしないし。余計な判断をすることと試行的思考は違う。僕は基本的に対他人とのコミュニケーション能力ぽんこつだが、その分誰に対してもイケるみたいな方法論がない。だから積むしかなかったが、見えてきたのはこれをしておけば大丈夫みたいな正解はないということ。

 

仕事ではそりゃあ省エネしたいと思うのも分かるが、省エネしていると楽しくないのも仕方ない。退屈が良いか、活動が良いかの二択。僕は結構素朴な疑問も好きだから、お客さんのそれに付き合うのもやぶさかではないが、そんなことに囚われたところで利益が得られるのかという合理的観点での先生の疑問も分かる。そういうのは1人遊びで完結すれば良いという説。まぁ職場の利益を考えながら仕事する下っ端は居ないと思う。

 

利益外の思考を隠れた評価としながら、そこを労賃としての対価にしない上層部もどうかと思うが。そんなの思考停止して退屈しながら仕事した方がマシになる。僕はちゃんと持ち帰るからあんまり無為とも思わないし、自己の絶対評価が低いから対価をもっと上げてくれとか思わないという意味では使い勝手が良かったのだろうな。まぁ退散するし、別にうらみつらみは全くない。単に、今後大丈夫かと思わなくもないだけ。もっと旅させたら良いような。

 

という感じで想っていたのは、僕はもう努力とか記憶とかできないのだろうなという思索。自分が努力したとか記憶力を使ったとかという認定した外界の採り入れってほとんど残っていない。結局残っているのは努力でも記憶でもない。料理スキルは満月さんの舌に合うご飯を作ることに役立っているが、料理を作らなきゃと思ってやってこなかった。記憶だって、覚えようとして覚えたことは使わなくなったらいずれ忘れるし、残っていることは意識が覚えようしなかったことだし、なんなら忘れたいことの方が残る。

 

こういうメカニズムはなんじゃろうなって思うと、意識が上澄みでどうこうしたところで特に意味はない。もちろん意識は従来とは違うことができるという意味で無意識の鎖から離れられるという改変の主導権を握りうるという意味で大事。

 

努力なんてする気はないが、まだまだ色々読んだり、人と逢ってみたりする所存。

別に誰でもそれをすれば良いとも思わないけど。留まるべき自分を見つけた時点で、それは守るべき。ただ、その時点で関わる世界は全部カタログになりそうな気もする。カタログが悪いのかというと、そうでもないからややこしい。

 

「暇と退屈の倫理学」の著者さんが、結論はこの本を読んだ過程としてそれぞれの読者にあると書いていて、そうだよなと思った。誠実な人だ。退屈を解消したいと思って手に取った人にとっては肩透かしだろうが、退屈は客観的な事態でもない。幸福と同じく、当人が退屈だと感じるから退屈が存在するだけ。

 

この文脈というか、言葉の話。法律学界隈の話もむずむずしているが、本日はこっちで。

 

文字って、情報量としてはかなり少ない。だからこそ文章は読んでいるようで読まれていると考察した文学者さんは慧眼。言葉っていちいち解釈が必要だから客観的なものではありえない。ここの切り離しってなかなか修練を積む必要がありそうな。

 

日常用語は行動と癒着しているから、言葉よりも行動を読むべきであって、言葉が都合が良い人は基本的におかしいと思った方が良さげ。僕は結構色んなこと気にしぃだから色んな人の中に存在する自分のことを考えるが、きっと当人の中では大した存在でもないのだろうなと思う。僕の中で勝手に残っていくだけ。

 

はい、こんな感じで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。