なんとでも

 

 

 

今週末に健康診断の予定だったが最新のシフト表が休みではなくなっていた。別にあえて受けたい訳でもなし、ビールの本数を減らさなくて良いか、ラッキーくらい。念のために上司に聞いてみたら記載が漏れていただけだった。それならそれで半日空くから問題ない。ビールはちょっとずつ減らして、前日の日記のお供は水になる。

 

健康診断にお弁当を持っていくことを思い付く。昼前に終わってからどこか見知らぬ公園を探してビジネスマンか遊んでいる子供達に紛れて食べるという世界線。前日の仕事が終わるのが早いから夜ご飯と兼用で作ることは全然できる。あとちょっとした目論見はあるが、これは運次第。

 

本日の副菜は昨日作った菜の花の辛子白だし和えと、もやしとそろそろ危なくなりそうな厚揚げをレンジで味噌煮込みっぽくしたもの。どちらもかなり美味い。自画自賛できる日常が楽しい。

 

退職の日取りが決まったが、思いの外有給が少なくて、来月はほとんど仕事になった。この仕事が嫌だから辞めるということではないから問題はない。新人とか人員の体制が整っていないのも分かるし。ただ、体制のことは僕のような下っ端が気にすることでもないとは思う。うまくいくと良いと祈ろうか。

 

 

昼休みに本屋さんをのぞいたら、村上春樹の最新長編が来月出るらしい。縁があったら買うのだろうなという感じ。実際は来月になってみないと分からない。

 

 

帰りは満月。近く見えるがやや小さめ。

個人的に月の見え方って精神のバイオリズムと連関しているような気がする。

 

 

 

さておき。

 

酒量が少ないと、アウトプットが少なくなって、外に出ない非言語の思索が捗る。外に出さないと存在として感知されにくい。まぁ、どういうことが頭の中に起こっているかは、当人の非言語的表現に出るだろうから読もうとすれば読めるのでは。もちろんここで読まれているのは言語で表現できるものではないけども。

 

「暇と退屈の倫理学」で、退屈を解消するススメみたいなことが書かれていた。これって幸せに過ごすというところとも近そう。曰く、ハイデガーさんが語るパーティの退屈の中に、日常の描写があまりに少ないというところから。「慣例としての料理」として表現されていないが、具体的な料理はなんだったのか、会話の内容はどうだったのかが語られないのは何故なのかというところ。ちゃんとご飯を美味しく感じているのか。

 

退屈しないためには、消費ではなく浪費をすべしという前提がある。消費は観念を受け取るから際限がないが、浪費は物を受け取るから限界がある。

 

日常の中で「物(もの)」を受け取るということが退屈の解消論だという説。たしかに日常と非日常の分け方って、どちらも時間が観念として消費されている。具体的に何かを持ち帰っている訳ではなさげ。個人的には日常/非日常(現実/非現実)の分け方は無いと思う。だってどちらにせよ劇場だし、現実が受け取るものを多くしている訳でもない。

 

ラッセルという哲学者の論が出てくる。何かを楽しむためには訓練が必要とのこと。これが知識とか教養というように受け取られているみたいだが、これはもっと日常にも適用できるのではというのが筆者の説。ご飯の味の違いが分かるためには具体的に色んな味を意識しながら食べたり、自分で作ったりする訓練が要るし、なんなら自分の体の動かし方だって日常で訓練できる。

 

ここまで読んで、まさに僕がやっていることだなとおかしくなる。日常の限られた料理時間の中で何が作れるかを模索したり、左手で文字を書く訓練したり、文章だって書き終わりがなるべく早いようにしているし。たしかにこういうことをしていると、人生劇場で退屈する暇がない。まだやっていない創作という領域もあるし。

 

これを向上心と呼ぶのは違うなと思っているのだが、この意味がちょっと分かった。向上心って今の自己を否定するところから起こる。何かを積んでいくことで承認できる自分になれるという未来向きの思想。これが悪いとも思わないけども、負荷をかけないと自分で居られないというのは、負荷をかけられなくなったときに一気に心が折れそうでなんだか危うい。外的要因でしか自己を認められない訳だし。

 

まぁ、何が無くても自分で居られるのは禅の精神か。最終講義の2周目の1人目が禅学者だった。これも1つの幸せの方法論な気がする。

 

あと、何かが分かったという感覚について。

 

これってどれだけ知識を貯め込んだところで起きるかどうかは分からない。数学の公式を覚えるみたいに世界を知識で解いていったところで腑には落ちてこないのだよな。組み合わせたり飛び越えたりして、やっとこさ外の世界だったものが自分に含まれる。

 

誰かの哲学者さんが、反省的なんたらと命名している感覚。

ここに在るのは過程でしかない。結果は他人と共有できるけど、過程のメカニズムは他者からはブラックボックスになる。

 

 

 

あとあと、

 

世の中は恋愛という行為を要求しているという記事を見かけた。マッチングアプリとかの市場から離れて独自の領域を作るべきみたいな話。ここに対しては特に何もない。僕も都合とか条件で比べられたら今や誰にも選ばれないし、選ぶ気もないから満月さんとマッチングされた。僕にとってだけとても良い人で充分。

 

そうでもなく、これって現代刑法学が、犯罪者ではなく犯罪「行為」を問題にしているのと近いなという飛び越え。行為を問題としているから、犯罪者は犯罪行為の主体としてしか捉えられない。人を人が裁くという方法が駄目になったから、なんとなくずらしたのかなという印象が起こる。もちろんこんなこと専門書にも書いていない。

 

ここはもう少しコトコトしておく領域。

勝手に色んな思索の鍋がコトコトされているし、特にカロリー使って考えているという実感がないから、考えるってそんなにしんどいことだっけという感じはある。

 

とりとめがなくなってきた(真骨頂)のでそろそろおしまい。

 

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。