ぱねる

 

 

そろそろ新ごぼうが古くなる。何を作るか構想しているうち、ごぼうのぼうってどういう漢字だったかと迷子になる。ろぼうのぼうと同じだろうなと思って仕事中にメモ帳で書いてみて調べたところ、微妙に違った。

 

路傍の牛蒡。語呂が良い。

 

 

 

さておき。

 

アラームの設定を変えていなくて5時50分に起こされる。特に何も思わずに二度寝。この時気付けば良かったのだが、本来起きるべき8時20分にはアラームが設定されていなかった。おかげで8分寝坊したが、時計時間は常に意識しているし問題ない。夢の中では時計時間があべこべ。休日は云々倍速で過ぎる。そして電車待ちになると5分でも永い。

 

夢には巨大な猫と中くらいの猫と小さな猫が現れてじゃれていた。いずれ満月さんの友人宅で犬をモフれるからだろうか。犬の警戒の解き方を調べておかねば。幼少期に飼っていたけど、特に仲良くはなれてなかったような。猫は室内に居たからその分慣れてくれていた感じ。絡むと生傷生成機な猫氏。

 

どちらも居たから二極化みたいな概念はない。どちらもどちらで良い。YouTubeでは犬動画も猫動画も眺める。なんならカワウソも眺める。別にどの種類を選ばないといけないという話でもない。きのこの山たけのこの里だってどっちも好きな層があっても良いような気がするが、仲間と敵で分けた方がきっと省エネになるのだろうな。仲間と敵というより、誰かの人格を測る上での省エネかもしれない。何が好きで何が嫌いかを明確にしないと自他の人格が分かりにくくて、考えが不法侵入してくる。

 

 

お仕事。

 

席替えしてPCのデスクトップのアイコンが変わる。同期の人格が垣間見える。検証環境使ってないんかいって。いや、もっとベテランの人でも検証環境を使っている人はほとんど居ない。だって生き字引のような先生が居るから聞いた方が早いし。僕は試行するのが好きだし、そこで回答が上手く出てくれば先生の仕事が減らせるという一石二鳥だから勝手にいじっている。もちろん仕事において早さってかなり重要な要素だが、今の仕事の納期が減ることに勝るとも劣らないのが未来の仕事時間が減るということだと思う。だから今使い物にならない人材を教育して未来の時間が減るように投資するのが法人だし、今を省エネで対処するだけでは労働者も大変だと思う。いつだって新しいことに対処しないといけないストレスがある。仕事ではなく上司の気分とか機嫌に対処しないといけないというのもなかなかの地獄。

 

仕事が単なる生産効率の話だったらとっくにほとんどの作業が自動化されているような気もするが。僕は仕事では遊ぶが人では遊ばないというというものさしがあるから、関わった人を破綻的に潰すようなことはしなかったはず。遊びに巻き込むというのはアリかもしれない。

 

 

お弁当。

 

朝の気温は低かったが日差しは春だなと感じていたら案の定休憩時間には気温も上がって、ピクニック日和。気温が何度か上がっただけで公園に人が増える。いつものベンチは先約が寛いでいて空きそうになかった。食べ終わったら空けてくれって視線を送ってみたのだが、なんだかジロジロ見られているなとしか読まれなかった模様。もちろん女性にはそんな視線送れないし送らない。

 

光合成ほくほく。太陽神が信仰されていたのも肯ける。太陽光に差別はない。

定期的に隠れるツンデレな神様だが。月が信仰されるのは熱がない光で照らしてくれるからなのか。無温の光って神秘的。もちろんどちらも好き。なんなら雲でも星でもなんでも良い。

 

そういえば、昨日卵を買い忘れたことに気付いてコンビニに走ったが茹で卵しかなかった。本日帰りに補充しようと思ったらスーパーでも温泉卵しかない。卵の生産界の供給減なのか、ためしてガッテンみたいな番組で卵の良さが紹介された需要増なのか。卵が買えなかったところでたんぱく源はいくらでもある。厚揚げと新ごぼうと人参のレンチン煮物にした。

 

(交換)価値があるということを気にするというのは代替物と品揃えが等価ということなのだが、人って結構品揃え的な自分の価値を気にするよな。ここ一週間の夢の中に、幼少期の僕が出てきて、自分の価値を呈示して欲しいと訴えていた。いまの僕からするとそこに固執することに価値はないのだが、幼少期の価値観満載の環境の自分にどうアドバイスすれば良いのかを考えてしまう。

 

比較対象にされた時点で固有ではないなと思ったのが、大学に入った後の里帰りで母親が運転する助手席での会話の中で、姉と妹と僕の3人の中で、〇(本名)が一番勉強できたと評された時。そんなものかと思ったが、全然嬉しくない。別に姉にも妹にも勝ちたくて過ごしている訳でもないのに。誰かの視界では誰かに勝ってしまっているのがキモチワルイ。

 

ここで優越感によって自己が承認されるような人格だったら分かり易かったのだが、そうはならなかった。固有を求めるというのはなかなかややこしい世界観だが、あんまり他害はない。いや、害になることもありうるのか。人の世界観をぶっ壊す不法侵入。

 

 

ともあれ。

 

僕は別に習慣を嫌悪している訳もないし、省エネ主義でもある。蓄積された自分の仕組みは自分だけのものだし安定的な世界は天国かもしれない。ただ、習慣的な世界って退屈とセットになる。今更退屈の中で生きるつもりもないから、経験としての習慣に正しさを求めるのは違うよなという感じがある。

 

生活環境が変わることが退屈しのぎではなく、日常に退屈するのが勿体ないという意味だから、何か習慣外のところにしか生を感じないとも違う。

 

本日は早く寝るからここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。