これから

 

 

 

帰り道、遠くからぱん、ぱんと音がする。近くで花火大会をやっているらしい。見えずとも音だけで大玉の花火を想像できるのが人間の醍醐味。そして地元情報大事。

 

 

さておき。

 

仕事はまた新しいことがあった。

具体的なことはかけないけども、職場から遠い物件も考え方によりけりなのかという感じ。通勤が車でもその中で音声に限りだとしても趣味活動やら啓発(自己投資)活動ができるし、なんなら起きているだけで朝活になりうる。

 

個人的な朝はなるべく寝るのがちょうど良い。寝ることによって情報が整理されるという機能の方を重視。とはいえ通勤時間が長い時期もあった。満員とは言わずとも8分くらいは埋まっている電車であんまり座ることもできかったため、ぼーっとしていることが多く、むしろ強迫的な想念の方に囚われがちだったかもしれない。まぁこれはそのときの精神状態が芳しくなかったからであって、いまだったらもう少しポジティブに有効活用できるかもしれない。

 

ただ、これは異動とかでやむを得ずそうなったならば、という話であって僕の中では住環境より仕事環境より通勤時間の方が重い気がする。満月さんの運のおかげですさまじく良い住環境になっているが、1K独り暮らしでも特に問題はなかった。いや、最後らへんはシャワーの出が悪すぎるは満足に並行料理できないわで時間の問題になっていたが。

 

満月さんは最近遊び場でいまいちだが、この部屋を契約できたこととか、パートナーであるいい歳したおっさんがハローワークの求人1件目で就職できたとかを考えると人生劇場上の運はそうとう上向きだと思われる。あとは家族と僕の相性がなんとなく良いとかもあるのか。

 

だからといって、負けても気にしないであるべきみたいな話ではなく、捉え方次第だよなというだけ。僕も下向きな視点で見れば悪いことばかり見えてくるのだが、現状を実際に楽しんでいるし、なんとでもなるという感じ。満月さんは自分のことを下げうんたらと自覚しているみたいだが、僕にとってはそれほどでもない。むしろ上げうんたら。

 

 

経験則で言えば圧倒的に足らない職場で、新情報ばかりで圧倒されがちなのだが、ちゃんと目を開いて見ること聞くことも体験として捉えて、さっさと追いついて行こうと思う。

 

ともあれ、あんまり日常化できていない領域だから仕事の話はそこそこで、日常化できるところを日記として書いた方が精神衛生上良い気がする。受け取った情報量を上手い具合に言語化する程こなれていないから、バランスが悪くなる。

 

新情報だと思っていることも、実は日常が細分化されたものでしかないということもある。僕は引っ越しするときに設備は特に気にしないのだが、気にする人も居るし、気にしようとすればいくらでもできる領域だから、想像力を働かせて気にする人の立場でストーリーを構築してみれば良いのだろうなとか。

 

 

はい、仕事話はここまで。

としたいのだがもう少し。

 

土日は繁忙期らしい。たしかに土日休日の人の方が多いだろうし、そうやって世間が動いているだろうし。だから、先輩男子とたまたま2人きりになって、雑談が捗った。僕としてはいまのところ、運転中はともかく営業所では先輩たちがどのタイミングで暇なのかが分かっていないから自分から雑談を振れない。

 

先輩男子が気を遣ってくれているのか、色々話を振ってくれた。

 

人と話すの好きですか?

→別に嫌いではないけども、人の話を聞く方が好きです。

(必要であれば話す気もする)

 

趣味はなんですか?

→読書です。最近読んでいるのは「ある男」です。

(先輩男子は話の感じでディープな小説の話を振っても仕方なさそうだから分かり易い本で振ってみたが、あまり話は続かなかった)

 

読書ではピンと来なかったから、趣味とまでは言わないけれど料理は毎日作っています。時々凝った料理を作りますと振ってみた。そうすると、当然どんな料理を作っているのですかと聞かれて、最近ルーローハンを作りましたと言ったら、ちょっと盛り上がった。

 

という感じで問答形式の雑談が展開しつつ、コーヒーの話になった。

先輩男子もコーヒーが好きらしく、実家暮らしで自炊はしないけれどキャンプ場でご飯を作ったりコーヒーを炒れたりするのだとか。

 

コーヒーで盛り上がって色々話していると、ハンドドリップはなんだかんだめんどうだから、ほんとはエスプレッソマシーンが欲しいと言う。僕が同居人(満月さん)の炒れてくれるコーヒーが美味しいと言ったら、「僕も炒れてくれる人が欲しい」と返って来た。

 

人間観察でもないけども、ここに人格が透けてくるという読み味。

別にそれが悪い訳でもないし、そうやって条件で相手を理想化するというのは当たり前。

 

要は、市販品ではないコーヒーは好きだけど、自分で炒れるのは面倒だから、それをやってくれる人が居れば毎日美味しいコーヒーを飲めるのにという考え方。

 

物件探しでもなし、と思いつつ、自他を物件と捉える価値観の方が実はメジャーなのかもしれないとも想う。財産に価値があることと人間は個人で存在することで価値があるというのが混同されているような。

 

僕は別に満月さんがコーヒーを炒れてくれることに価値を置いていない。もちろんありがたいとは思う。有難いことって価値で捉えることでもないから、仮にコーヒーを炒れることが無くなった満月さんだとしてもプライスレスの価値は変わらないし、別にそこがセールスポイントな訳でもない。

 

いや、別にこれをしてくれるから好きなのだ、みたいな理性的に他人を捉えるのも全然悪くない。これは何回も言っておかないと変に誤解されそうだもんで。

 

個人的には、パートナーは凄さを見るようにした方が面白いという感じ。

満月さんの本日の凄い。自分も早く出勤なのに洗濯をしていたこと。必要なものを洗濯するじゃなく、僕が帰って来てからの作業を減らすためとのこと。あっぱれ。

 

こういうのを特に話し合いもなくできるのは、相手のことを条件で捉えて居ないからだよなぁと思う。やらなかったら僕がやるのだから、ほんとうは放っておいた方が楽。それによって僕が不機嫌になるとかもないのに。

 

料理だって僕が働きだしたら分担が満開している。

満月さん印のぬか漬けがうまし。きゅうりは2日目になるとちょっと味噌味風味になる。アスパラは塩味がきいていてうまい。ごぼうも分解されて柔らかくなっている。

 

ぬかの発酵作用の神秘。

 

夜ご飯は帰ってから多めに親子丼を作った。明日満月さんがお弁当に持って行ける。

僕のお弁当生活はちょっと未定。ローソン弁当を食べるよりは作っていった方が良いのだが、仕事の流れが掴めていないもんで。先輩女子はお弁当を持って来ているからちょっと機会があれば聞いてみようと思う。

 

 

やれやれ。

 

最後に自我の話。

 

岡田さんの話から入る。現代にある「本音と建て前」の感覚は病理的なもので、本音は存在させているから本音になる訳で、他人に語れないようなところを考えないように訓練すべきという言。分かりみ。呪詛とか怨嗟みたいなところとか、ほんとに下向きの人格を誰にも語れないのであれば、それは存在しているとは言えない。

 

ここからは僕の話。

だとすれば、人の人格って、関係の中にしか存在していないよなって。

この関係って別に対人でなくても良いのだが、人の世界に顕われるのは結局のところ人間関係上の人格になる。

 

僕が良い貌になっているのだとすれば、良い貌にしてくれる人が顕われた関係の中で生きられるようになってきているからだし、本来の自分であるという人格的レッテルも、人間関係が変われば外には通用しない。

 

これは逆も然りで、誰かが自分の人格だと思っている自己が、僕と関係するとそうではなくなるかもしれない。

 

それくらいで本音を捉えるのが次世代の人間観にならないものか。

だって、人間ってすこぶる曖昧なのが現実だし。その中で統計的に多い部分が性格とか人格と捉えられる。

 

にわか量子力学ぽいが、確率論的な濃淡でしか人って捉えられないような。

 

とりあえず、職場で精神的に小躍りするくらいにならないとなという気分。

みんなが小躍りできるような世界が良い。

 

なんのこっちゃ。

 

はい。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。