むきだし

 

 

 

口内炎が移ってきた。本来は感染するものではないらしいがやってきたものはしょうがない。口内炎は痛い最中にしか存在しないし、痛さによって何か生活が変わる訳でもない。

 

生活と言えば、今朝はなかなか散々だった。寝坊は自発だが昨日シャツにアイロンがけするのが漏れていたことに気付いたのがギリギリの出発時間。小走り延長すれば良いかと急いでかけ終えて出発したら焦りでベルトを締め忘れたのに気付いたのが出発した1分後。締めに戻ってさらに小走り時間が延長される。休日のランニングであればどれだけ汗をかいても問題なかろうが、こちとら平日のスーツだから汗をかかないように小走りをしなくてはいけない。

 

間に合ったし、なんとなくこの抜け作感は良いことだという感じ。たしかに体力エネルギーは消費したのだが、純粋な体力って基本的にありあまっているから折々消費して鍛えた方が良い。肉体仕事でない限り疲弊するのは肉体ではなく精神かと思われる。心が疲れたときのが体もずっと疲れる。

 

反省して明日はもっとゆったりと思わなくもない。ただ、朝にゆったりしてスイッチを切り替えて仕事モードにするという質でもないから、好きにすれば良い。間に合っているし忘れ物もしていない以上、反省すべき点は1つもない。

 

この文脈で、「反省」という観念について考える。結論から言えば反省って全然役に立たない。有効な観念としては「学習」になるだろうな。

 

あくまで僕のニュアンスだと、「反省」ってある特定の失敗を次はしないという未来にたいする銘記みたいなものであって、したければ無限にできるしすれば良い。ただ、反省の対象ってあくまで具体的な事象であって、未來において全く同じことが起こることは在り得ない。状況とか経緯が微妙にズレると反省は発動できないような。要は「同じこと」の括りをどこに置くかだが、ポイントを具体的捉えれば捉えるほど未來に応用できなくなるし、抽象的に捉えれば捉えるほど、反省という観念から離れる。ありふれた名言で反省は後悔より陽であるみたいなのがあるが、どちらも同じ次元で後ろ向きな気がする。

 

次は同じ失敗をしないという観念に後悔を媒介にすればどうせ同じ失敗をするとなるし、反省を媒介にすると過去の自分は駄目だったからもっと良くなるという過去を他人事みたいに否定することになって、進めば進むほど否定の連鎖になる。

 

過去を踏まえて未来をより良くする感覚に対して特定の言葉を当てることは不要で、ただ自他に説明するための言葉としては学習が適切だろうなと思った。もちろん学習=暗記だと足りない自分に足していくみたいで、もともとの自分が足りなかったという変な自己否定観と過ごしていくことになるから、見えることが増えていくというくらいのニュアンス。

 

お仕事で僕を観測している人は、優秀とか向上心があるとか言いそう。古参の先輩には優秀とは言われたし、向上心があると思われていそう。この向上心も曲者で、個人の主観の中の辞書にそんな言葉はない。近いのは好奇心。好奇心で勝手に遊ばせていたらいつの間にか見える世界が拡がったが、それによって過去の自分が否定されることにはならないという自己分裂が否定できる。

 

反省文の制度とか辞めたら良いと思うが、反省という態度が外から観測できる証拠が大事なのかもしれない。反省後に人がどう変化したのかまで見ている気はしないし、反省させることで鬱屈した精神が発散されるのかもしれない。謝罪文化の日本。

 

パートナーに反省させないといけない関係は願い下げ。

もっと未来を楽しく創造できる方が良き。

 

 

さておき。

 

文学理論を読んでいると、この日常で誰もが文章を書き綴れる現在にも適用できそうな気がしないでもない。詩についてはまだなんとも言えない。壮大なのは宇宙に届きつつ人間の集合的無意識も掘っている方向がないものだが、個人の承認とか存在意義の為に書かれた詩は実は詩の本質からズレているのではとか。

 

個人的にずっと思っているのは日々を綴っている人の中でも、出来事(自己史実)ベースとほんとの日常ベースで書いている層が分かれているということ。僕は後者だからファンが寄りつかない(つけない?)。

 

読書感想文も出来事ベースに含まれる。宮本輝の「青が散る」の感想文面白かった。まさにこれを読んだのが大学の時だったのだが、感想文の中で冒頭文を現代小説と比較して視点の距離の近さ遠さを問題にしていて、出来事ベースというより文学者のベースがあるのだろうなと勝手に想う。

 

まぁ、出来事を語るというのが日記の醍醐味であって、出来事を面白おかしく語るのは雑談スキルとしても重要ではある。ただ、個人的に味わっているのは、出来事があったことを当人がどう評価したかの部分。何が出来事として起こっているにしろ、それをどう解釈しているかが当人の人生劇場だし。

 

ただを重ねて、世界の解釈で雑談(交流)できる人ってどれくらい居るのだろうな。

満月さんとはできるが、ここにおける自己って自分ではなく視点からしたら観測対象になるのだよな。この世界に耐えられる人とは如何。案外いけるかもしれないが、酔い任せでやったら相手を泣かせたことがある(らしい)。

 

どうでも良いが、僕の性能に付け入ってお仕事でほんとはないのに名指しで僕を選んでくる。次そういうのが来たら断りましょうかと年下上司と相談した。まぁそろそろ退職だからこういう越権をしようとしても相手が居ないことになるから問題はないのだが、仕事に私情を無駄に入れるのも如何せん。

 

ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。