自己評価

 

 

 

先週の不調は何だったのかというくらいの活発。諸々煩わしい事務処理(その中に母親への報告も含まれる)も残っているのだが、自分なら大丈夫だろうという楽観がある。

 

人間は○○であるという一般常識が通用しなくなっているような。

 

とりあえず、日記的日記から。

 

夢はなんとなく、執着を想わせる感じ。

僕が執着した人っておそらく2人。満月さんは殿堂入りというか居なくなることがないだろうという意味で除外される。当人にとっては不名誉かもしれないが、愛は執着からは生まれないし。

 

ラディゲの肉体の悪魔で、「男がやたら垂れ流して、なんならそれを愛の証拠にする」というフレーズ。これが何かは書かれてないようなのだが、普通に読んだら何かは分かる。僕はこの表現を愛とはしなくて、たぶんそこが合わなかったはある。女性にありがちな身体を許さないことによって云々かんぬんとかみたいな。

 

そういえば、INFPの男性が書いていた文章で、男性らしさに嫌悪があるというのがあった。たしかにちょっと分かる。僕は自分が女性だったらもっとスムーズだったのではと思うことがなくもなかった。今は性性と存在はそんなに連動していないし、男性らしく生きる必要もないという感じだから特に齟齬はない。現代社会ってまぁまぁ許容の器が拡がっているし、存在の場のためにあえてらしくしなくも良い気がする。

 

固執しているのは社会ではなくて、当人という意味。

何処で生きるのかも、「暇と退屈の倫理学」でいうところの、気晴らしの中でなんとなく退屈だと感じるところなのかもしれない。著者さんはここを人間の醍醐味としたいという文脈だが、個人的にはもっと人生劇場を楽しめる幕があるような気がしていて、あんまり賛同できない。ここって脚本家ではなく登場人物としての主役でしかなくないか。

 

朝のうちに愛知県の散髪の予約をしようとホットペッパービューティーを散策した。

これ! という感じの店舗が見あたらない。今まで通っていた理容師さんみたいに見た目が派手なのに中身がヲタクでゲーマーなのは稀有なのかもしれない。美容院で髪を整えることはぶっちゃけ自己満足の領域がほぼほぼだと思うが、外からどう見えるかを整えてくれる場所でもあって、その付加価値が料金になっているだと思う。んで施術する専門家になるような人はそういう外向方向な人がきっと多いだろうし。

 

まぁ、リクエストをきちんと伝える言語能力はあるし、話してみたらだいたいの人に好感を持ってしまうから行ってみればなんとでもなりそうではある。聞かれたくないなら相手が話すように誘導すれば良い。いや、誘導ではなく自然の欲求か。

 

人の話を聞くことは楽しい。人が他人に対して当たり障りないことしか言えなくなりがちなのは、相手からの自分の評価が悪くなるかもしれないという予防線が働くからだと想われる。僕はここについては無色。前科ありますとか自己破産したことありますと言われても特に気にならない。むしろその事情を聞いてみたいかも。

 

 

 

さておきのお仕事。

 

特に何もないのだけど、なんというか、ふと、自分は自己評価より有能なのかもしれないと認識して良いのだろうなと思った。この職場ではかつてないほぼ自然体でお仕事しているのだが、自分の成果がどうでも良いのに吸収している。この感覚は中学時代のお勉強と近い。あんまり越境してやらかすとアレになる。案内し過ぎって。でも、仕事上の駒であることとそうでもない自分で両立しているっぽい。マルクスさんが考察していたように、労働している当人と本来の当人は分けられているという常識から越境しても良いよなって。労働している自分の作業から日常に好きに持ち帰って良いで良い。

 

Excelとか日常では遣わないし、仕事上の雑談スキルも持ち帰らなくても良い。

「ミステリという勿れ」で、仕事では上の方の立場で色んな人の事情なり立場を調整しているのに、家庭ではそのスキルを使わなくて不和が起きたという話があったな。個人的には誰かと関係している時点でプライベートな世界ではないという説。ただ、プライベートが心地良くない人と無理に一緒に居る必要はない。でも、パートナー関係における不満のほとんどは他人も自分もパートナーとして代わりが居るというところにありそう。

 

もちろん睦言では他に居ないって言うのは当たり前。

ここで理由を明確に叙述できるというはもっと良い理由ができたら代わるのだろうなと思う。言語化できるとすれば「ちょうどいい」くらいしかないような気がする。詳細に書こうとしても、このちょうどよさには届かない。

 

 

やれやれ。

 

僕は結構昔から怠け者認定されてきて、そうなのだろうなという自己認知だった。たしかにそういう部分もある。ただ、僕が怠けていたのは、他律的な義務的な勤勉さを認定されるのが煩わしかったという説。本を読めと言って来る人が居ないから読めるようになっているし、日常の料理タスクがしんどいみたいなことを言う人が居ないから日常的に料理できるようになっているし。

 

ニーチェさんが、罪悪感の根っこには負債感情があると論じたそうな。

必要なことをしていないという負い目なんてどうでも良さげ。負い目を刻印するのは人をコントロールする為の技術であって、そこにいちいち付き合う必要もない。

 

それで破滅的になるのであれば辞めた方が良いけども。

 

ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。